12/17/2025

2025/12月のハイク(竪破山)作成中

2025/12/17 (Wed)

日曜日の山行き予定が、天候のため延期され、今日の午前中はお天気の予報

ここは茨城県の男体山と高萩市の中間、北は花園山、南は神峰山に連なる多賀山地の「花園花貫県立自然公園」の竪破(たつわれ)山にある、黒前(くろさき)神社
標高418mの一の鳥居からハイク開始
茨城百景の竪破山は、山全体が黒前神社だが、社殿は竪破山の山頂にある
朝霜の降りた落ち葉を踏みしめ、旧参道に沿って歩く
『常陸国風土記』には、
崇神天皇の時代、多歌群の角枯(つのかれ)山は、戦勝の地として知られ、紀元前80年頃、蝦夷の征伐に出征した黒坂命(くろさかのみこと)が戦勝祈願に訪れ、平定後の凱旋時にお礼参りに再訪したが、この地で病に倒れ死んでしまい、角枯の山は黒前の山と呼ぶようになった、とある
黒坂命とは、初代 神武天皇と媛蹈鞴五十鈴媛命/比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスズヒメ、事代主神/大物主神の娘)との間に生まれた皇子で、第2代 綏靖天皇の同母兄とされる、神八井耳命(かんやいみみ)を祖とする多臣(多氏、オオ氏)の一族で、『常陸国風土記』の茨城郡の段に登場する。曰く、
黒坂命が、穴倉に住む土蜘蛛(国巣)といわれる土着の先住民を、茨棘(いばら/うばら)を用いて駆逐した(これが蝦夷平定か?)といい、あるいは黒坂命が、人々を悪賊から守るため、茨で城を築いたという、これらの逸話から茨城郡の名が付けられたという、いわば茨城県の祖のような人物だ
山中に名勝地がたくさんあるようなので、楽しみだ

戦勝祈願の地だった角枯山が、黒坂命を祀る黒前山となり、江戸時代に入り、山中の岩に黄門様が名付けた岩の名前から、竪割(たつわれ)山、竪破山と呼ぶようになったという
黒前山は古代から神の山として崇められてきたが、やがて密教系の巨石・山岳信仰の霊山となり、800年頃に征夷大将軍 坂上田村麻呂が社殿を再興し、日吉山山王権現と称し、別当田村寺を置いたといわれる
アキノキリンソウの花後であろう
きれいに枝を処理された、真っすぐな杉の森
もと日高見の国だった常陸国は、蝦夷とされた陸奥国との境にあり、平安時代の蝦夷征伐の前線基地として、朝廷から多くの人が送られてきていたのだろう
おや、最初の巨石らしきものが見えてきた

不動石(ふどういし)
(横8m×縦3m×高さ1.5m)
盤上に不動明王の石像が祀られ、その足元をきれいな清水が流れ落ちています。この石像は、明治になってから祀られたもので、石そのものはもともと黒前神社の祭神が浜降りの時、神輿の休み場所であったといわれています。
不動明王の台座の巨石には、横に真っすぐな亀裂が入っている
山道は急登ではなく、ゆっくりと景色を楽しみながらの登山道だ
次の巨石が見えてきた

烏帽子石(えぼしいし)
(横7m×暑さ1.5m、上部斜面の縦3m)
八幡太郎源義家が堅破山の神霊に参拝した時、かぶっていた烏帽子に似ていたことからこの名がつきました。
寛治元年(1080)奥州遠征途上の八幡太郎 源義家が、戦勝祈願に訪れている
八幡太郎といえば、袋田の滝そばの月居山の観音堂に籠ったという話があった





手形石(てがたいし)
(横0.9m×縦1.4m×高さ1.5m)
石いっぱいに右手5本の指の跡が深くえぐられているように見えます。八幡太郎源義家が石を押した時についた手形と言われています。





畳石(たたみいし)
(横8m×厚さ2.46m)
畳を積み重ねたように大きな石が4段に裂けるように割れています。
八幡太郎源義家が腰をおろして休んだので「腰掛け畳石」と呼ばれたことに由来しています。後に、堅破山で修行をしていた修験僧が座禅をした石とも言われています。





弁天池:水源は池の上台に繁茂するブナの原生林といわれ、標高5百メートルの高所に湧き出た水とされている。池の側には弁天社が祀ってある。





仁王門(におうもん)
明治2年に建てられた明神鳥居のすぐ上に木造の門があり、門前には右大臣・左大臣の木像が配置されています。門の呼び名である仁王様は右大臣・左大臣の後方にある畳半畳ぐらいの板張りの囲いの中に収蔵され僅かに格子窓を透かして見ることができます。以前は、仏教像である仁王様が堂々と配置されていましたが、慶応4年(1868年)3月に発布された「神仏分離令」によって黒前神社として継承され、神社形体の随身門として右大臣・左大臣に置き換えられました。本来は処分されるべき石像の仁王様を隠しながらも大切に守ってきた背景には仏教霊場として佐竹時代に広く恩恵を受けた地元の強い信仰がうかがえます。現在に残す神仏混淆の珍しい門となりました。
門前には、仁王様の姿がなくて左大臣の木像があります。これは、仏教を抑圧する「廃仏毀釈」の中にあって仁王様を守ろう、後ろに隠して密閉し、表には右大臣、左大臣の木像を安置して、随神門と名前を変え、門前に石の鳥居を建てて神社形式にするという苦肉の策できりぬけ現存しています。
 普通の仁王様は総じて朱色であるが、この仁王様は目のふちだけ僅かに赤みを残して、あとは御影石の地肌のままの姿でたっている。




舟石(ふないし)
(長さ4m、幅1.5m、厚さ右50cm・左90cm)
甲石の前にあり、土に半分埋まっているような舟型の石でその形が珍しいとされています。

甲石(かぶといし)
(高さ3.5m、外周12m)
元禄(1688年)以前は「堅破和光石」と呼ばれ、薬師如来が隠されている石として信仰され、正面に石をくりぬいたほこらがあり、その中に薬師如来の十二神将像(現在は6体)が祀られています。水戸光圀翁が仏教色の強い「堅破和光石」を「甲石」に改名したと言われています。

かって常陸五山の一つで、天台宗の山岳信仰と深く結びついていた時代の名残を留める釈迦堂


釈迦堂からさらに石段を登ると、黒前神社
紀元以前の黒坂命を祭神とするのだから、たいそう古い古社のはずだが、管理が大変なのでしょう、御朱印の書き置きも無かった
奇石の山だけに石の本殿
反対側から見た石の本殿






胎内石(たいないいし)
黒坂命が陸奥(蝦夷)遠征の帰路、山の麓で疲れていた体を休めていた時、一人の童子が馬を引いて通りかかり、あまりに疲労した黒坂命を見てその馬の背に乗せ、急坂の山肌を一気に駆け上がり、この岩窟に休ませたことから「胎内」という名がついたといわれています。













寛治元年(1087年)八幡太郎義家が奥州遠征の途中黒崎神社で一夜戦勝を祈ったところ神様が、夢に現れ一振りの刀を授けた。
 この刀で山中にある大石を斬りつけたところ真っ二つに割れ、この石が太刀割石を呼ばれ、山の名もそれが転化し、堅破山となったと言い伝えられる。


太刀割石
(縦直径7m×横直径6m×高さ2.5m)
永保3年(1083年)、八幡太郎源義家が奥州征伐の折、戦勝祈願のために堅破山に立ち寄り巨石の前で陣を引いて野宿していると、夢の中に黒坂命が現れ大太刀を差し出しました。目覚めた義家が自分の前に置かれた大太刀をひとふりすると巨石がまっぷたつに割れたと言われています。元禄3年に隠居した水戸光圀翁が元禄6年(1693年)にこの山に登ったおり、「最も奇なり」と感銘し石の名をつけたと言われています。以前は「磐屋(いわくら)」と言って、神の宿る石として信仰され、石の回りにしめ縄を張りめぐらし、みだりに石の上に上ることはできませんでした。


















神楽石(かぐらいし)
元の名を「まいまい石」と言い、堅破山の神霊が浜降りの歳、折橋の氏子の人たちにこの場所で神輿を渡し、一休みのためにお神楽を奏し、神楽舞をしたとされ、石の名になりました。





















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