4/28/2023

2023/4月の散歩(小山)

2023/4/28
2000円分のポイントを今月中に使うため、木曽路へ


二日続けて、安いお昼にありつきました
小山城(祇園城)跡へ来た
久安4(1148)年に小山政光によって築かれたとの伝承がある小山城は、鷲城、中久喜城とともに、鎌倉時代に下野国守護を務めた小山氏の主要な居城であった
当時の下野には、宇都宮氏・那須氏・長沼氏など小山氏に台頭する勢力が存在し、統治は不安定であった
宇都宮氏綱は、国領に関する件で鎌倉公方足利基氏の怒りを買い、基氏は当時の下野守護所があった小山に陣を構えて氏綱を降伏させた
しかし足利氏は、宇都宮氏のみが弱体化したことによって小山氏の勢力が伸びることを望まず、今度は宇都宮氏を支援して小山氏を牽制する路線を取った
本来一人であるはずの下野の国守である「下野守」に、小山義政と宇都宮基綱が同時に、任じられていた
小山氏としては納得がいかず、宇都宮勢に殴りかかり宇都宮基綱を討ち取ったのが、康暦元(1379)年の5月のこと
私戦を禁じていた鎌倉府にしてみれば、小山氏を反逆罪で討伐する良い機会となり、翌康暦2(1380)年から応永4(1397)年の17年間にわたる戦により、足利氏満が小山氏を滅ぼすこととなった
永徳元(1381)年4月、小山軍の拠点であった鷲城の陥落が確実となり、義政と嫡子若犬丸は鷲城を開城して祇園城に移り、降伏を表明し、証拠として義政は出家した
と見せかけ、永徳2(1382)年、小山郊外の粕尾に城塞(寺窪城・櫃沢城2城)を築いて抵抗を図り、祇園城は小山氏の手により自ら焼き捨てられたという
この裏切りに激怒した足利氏満は、3度目の討伐軍を派遣し、鎌倉府側の猛攻で寺窪城が陥落、脱出した義政だが追手に発見され、粕尾の山中で自害(享年33)、妻の芳姫も籠城中もしくは落城後に殺害されたという。だが、若犬丸のみは発見されず、そのまま行方不明となった
しばらく後の至徳3(1386)年になり、行方をくらましていた小山若犬丸が小山氏旧臣と共に突如小山で決起して祇園城を占領したものの、再度猛攻撃を受け陥落
さらに10年後の応永3(1396)年に、若犬丸は再び祇園城を占領する
応永4(1397)年、会津まで追いつめられた若犬丸は自害し、若犬丸の遺児である7歳の宮犬丸と3歳の久犬丸は地元の蘆名氏によって捕えられて鎌倉に送られ、ほどなく武蔵六浦沖に生きたまま海に沈められ、ここに小山氏の嫡流は完全に途絶えたという

地方都市の城跡をめぐり、大河ドラマの栃木版を見た気がする



4/27/2023

2023/4月の散歩(栃木)

2023/4/27
栃木市城内町の天台宗圓通寺
天長2年(825)慈覚大師円仁の開基で、当時は栃木市太平山に創建
天正7年(1579)に武将・皆川広照(ひろてる)により、栃木城築城の固めとして現在地に移転






手水鉢の屋根にはめられた4枚の絵




寺の入り口に神殿があった
栃木市内に出て目的のカレー
栃木グランドホテル内のレストラン カーディナルでは、毎週木曜日はカレーDAYとして、税込550円で提供してきたが、今日が最後のカレーDAYだそうだ
本日は、ネパールオリジナルバターチキンカレーと
那須三元豚と新ごぼうのカレーの2種
+200円で、コーヒーとデザートが付く
ここから徒歩で、市内を散策
旭町の満福寺(満福密寺)の裏門から入場
裏門だったため、1年前に訪問していたことに気付かなかった


オオツルボ(大蔓穂、シラー・ペルビアナ、Scilla peruviana)
大師堂の裏と脇に並ぶ、50体の「願かけ大師」


中央に「開運厄除大師」、右脇に悪運断ち、病魔退散、子育安全の「三鬼尊」(市指定文化財)、左脇に縁結び、夫婦円満、商売繁昌の「お聖天(歓喜天)」2体を祀る
通称ピンコロ大師の「寿老大師」
観音堂

堂内には乳飲み子を抱いた「子育観音」
本尊金剛界大日如来を祀る大毘盧遮那殿本堂(供養堂)は、去年の訪問時には未完だった?
びるしゃなとは、大仏様のことだそう



満福密寺から東へ徒歩15分ほどで、栃木城跡へ
皆川氏の居城を山城である皆川城から当地に移転したのは、天正19(1591)年
前年の天正18(1590)年に、豊臣秀吉が小田原北条氏(後北条氏)を降したいわゆる小田原征伐の際、下野や常陸の北条方の諸侯は皆、兵力を従えて小田原城籠城に加わることを義務付けられ、空になった下野の城はことごとく滅ぼされてしまった。
しかし豊臣側と誼を通じていた皆川広照は、小田原城を脱して包囲する豊臣側の陣所に投降したため、徳川氏の附属として本領安堵されたが、皆川城はすでに開城されており、仕方なく山を降りてこじんまりとした栃木城を作ったのだろう
水をたたえた堀が、当時からのものかわからないが、相当小さな城で居城だったのだろう
車で20分ほどにある皆川城へ来た
その麓にある慈眼山 護国院 金剛寺
手振れ写真ではなく、白ペンキが木板に滲んでいます
永享元(1429)年、会津田島の領主長沼秀宗が所領を没収され、小山氏の縁故を頼って皆川に移り住んだ
その後観音山(今の城山)に城を築き、秀宗公の母堂の隠居所として、尻内村の駒岡に有った廃寺を現在地に移し、皆川家代々の菩提所と定めたのが金剛寺となったよう
長沼秀宗公を初祖とし、その子「氏秀」公より皆川姓を名乗ったことで、以来「皆川家歴代祖廟」に墓碑が並びます

祖廟にある大木はケヤキか?
アマナの花も旬です
葉がスイセンに似ていることから、ツリガネズイセン(釣鐘水仙、シラー・カンパニュラータ、ヒアシンソイデス・ヒスパニカ、スパニッシュ・ブルーベル)のようです
藤棚から見える皆川城跡