結城市上山川の結城諏訪神社
天慶3(940)年の創建の、万事必勝の諏訪大明神
時の朱雀天皇から、下野の武将藤原秀郷(ふじわらのひでさと)に、平将門を討つべしとの勅命がくだり、必勝祈願のため、信濃国諏訪大社より諏訪大明神の御霊を招き、今の境内地で必勝祈願の祈祷を行ったのが始まりとされます
八百万の神最強の武神、建御名方神(たけみなかたのかみ)と、建御名方神の兄弟神であり、恵比寿様の、事代主神(ことしろぬしのかみ)を祀る
平将門の乱に際し、将門の軍勢の矢から藤原秀郷を守ったと言われる勝負岩
西の方角を向く拝殿
将門の乱に勝利した秀郷以来、源頼朝の奥州攻めに参戦した結城朝光が戦勝を祈願するなど、勝利の神として多くの武将の信仰を受けてきたそうだ
西に延びる参道
本殿は室町時代の建築で、市の指定文化財
結城市山川新宿の、明王山大栄寺は、山川不動尊と親しまれています
茨城県観光審議会が選定した100の景勝地「茨城百景」の中の「結城史蹟と名崎の送信所」に、山川不動尊が含まれました
また結城市では、観光振興策の一環として、市内の名所・旧跡等で優れた景観・風情を有する場所を「結城百選」として選出し、「山川不動尊縁日」が登録されました
山門の彫刻
仁王門
鐘楼
本堂
本尊である不動尊は弘法大師の作といわれ、平将門が京都へ上ったときに、東寺に安置されていたものを守り本尊として関東に持ち帰ったとされ、平将門の乱によって将門が討ち死にした後、将門の家臣坂田蔵人時幸はこの不動明王を持って山川の綾戸城(あやどじょう)にひそんでいたところを、源経基の家臣安部小太郎幸光の軍勢千五百余に攻撃され苦境に追い込まれたため、山川沼に逃れて一心に不動明王に戦勝祈願をしたところ、突然、暴風雨となり敵も味方も山川沼に沈んでしまったといわれる
天慶3(940)年の創建の、万事必勝の諏訪大明神
時の朱雀天皇から、下野の武将藤原秀郷(ふじわらのひでさと)に、平将門を討つべしとの勅命がくだり、必勝祈願のため、信濃国諏訪大社より諏訪大明神の御霊を招き、今の境内地で必勝祈願の祈祷を行ったのが始まりとされます
八百万の神最強の武神、建御名方神(たけみなかたのかみ)と、建御名方神の兄弟神であり、恵比寿様の、事代主神(ことしろぬしのかみ)を祀る
平将門の乱に際し、将門の軍勢の矢から藤原秀郷を守ったと言われる勝負岩
西の方角を向く拝殿
将門の乱に勝利した秀郷以来、源頼朝の奥州攻めに参戦した結城朝光が戦勝を祈願するなど、勝利の神として多くの武将の信仰を受けてきたそうだ
西に延びる参道
本殿は室町時代の建築で、市の指定文化財
結城市山川新宿の、明王山大栄寺は、山川不動尊と親しまれています
茨城県観光審議会が選定した100の景勝地「茨城百景」の中の「結城史蹟と名崎の送信所」に、山川不動尊が含まれました
また結城市では、観光振興策の一環として、市内の名所・旧跡等で優れた景観・風情を有する場所を「結城百選」として選出し、「山川不動尊縁日」が登録されました
山門の彫刻
仁王門
鐘楼
本堂
本尊である不動尊は弘法大師の作といわれ、平将門が京都へ上ったときに、東寺に安置されていたものを守り本尊として関東に持ち帰ったとされ、平将門の乱によって将門が討ち死にした後、将門の家臣坂田蔵人時幸はこの不動明王を持って山川の綾戸城(あやどじょう)にひそんでいたところを、源経基の家臣安部小太郎幸光の軍勢千五百余に攻撃され苦境に追い込まれたため、山川沼に逃れて一心に不動明王に戦勝祈願をしたところ、突然、暴風雨となり敵も味方も山川沼に沈んでしまったといわれる
その後、漁師が引き上げた網に尊像が引っかかっており、現在の長徳院のあたりに仮の小屋をつくって安置されていたが、慶長6(1601)年、大恵上人によって大栄寺(山川不動尊)が建てられ祀られたという伝承が残っている
山川不動尊は、 寄木造、彩色、一躯、大きさは像高50.3cm、光背96.7cm、台座40.7cmで、体部とも前後矧(は)ぎ、首枘(くびほぞ)を設け、内刳(うちぐり)、玉眼、両腕矧ぎ付け、両脚部矧ぎ寄せの像で、肉身には群青彩色(ぐんじょうさいしき)がところどころに残っているという
当初室町時代の作といわれていたが調査の結果、鎌倉時代中期の可能性が指摘されているそうで、弘法大師空海の作と言うわけには、いかなそうだ
川から引き揚げられた話も、よくある伝説なのでしょう
山川不動尊(木造不動明王坐像)は、現在は本堂裏の収蔵庫に安置保管されている
本堂の手前左右には、大きな石灯篭がある
本堂側から仁王門を通し、山門を見る
山川不動尊にほど近い結城寺も、結城百選選定地
新義真言宗のお寺だが、その歴史は古く、遣唐使「鑑真和尚」の一番弟子の「祚連律師(それんりっし)」が、681年に開山したと言われる
ムクドリ
ハナズオウ
八千代町八町の太光山 新長谷寺は、八町観音とも呼ばれている
町指定有形文化財の本堂には、県指定有形文化財の木造十一面観音立が祀られる
鎌倉時代の貞永元(1232)年、結城氏の始祖結城七郎朝光(ゆうき しちろう ともみつ、源頼朝の側近。)が、源頼朝に従い鎌倉に滞在中、名工運慶(うんけい)作の十一面観世音を拝して心打たれ、これを持ち帰り、常陸国下妻郷の景勝の地に八町歩の寺領を有して八町村と命名し堂搭を建立、安置したのが始まりとされる
町発行の「八千代の文化財」によると、本尊は仏像の保全修理で解体した際に内部に墨書銘があり、仏師院祥(いんしょう)による貞和6年(1350年)の作と判明したそうで、どの寺も本尊の生い立ちを歴史になぞらえるのが上手いようだ
山川不動尊は、 寄木造、彩色、一躯、大きさは像高50.3cm、光背96.7cm、台座40.7cmで、体部とも前後矧(は)ぎ、首枘(くびほぞ)を設け、内刳(うちぐり)、玉眼、両腕矧ぎ付け、両脚部矧ぎ寄せの像で、肉身には群青彩色(ぐんじょうさいしき)がところどころに残っているという
当初室町時代の作といわれていたが調査の結果、鎌倉時代中期の可能性が指摘されているそうで、弘法大師空海の作と言うわけには、いかなそうだ
川から引き揚げられた話も、よくある伝説なのでしょう
山川不動尊(木造不動明王坐像)は、現在は本堂裏の収蔵庫に安置保管されている
本堂の手前左右には、大きな石灯篭がある
本堂側から仁王門を通し、山門を見る
山川不動尊にほど近い結城寺も、結城百選選定地
新義真言宗のお寺だが、その歴史は古く、遣唐使「鑑真和尚」の一番弟子の「祚連律師(それんりっし)」が、681年に開山したと言われる
毎年繰り返される鬼怒川の洪水を嘆いた村人が、たまたま栃木に高層が来ていると聞き直訴に行ったそうだ
村人から頼まれた祚連律師は、一心にお祈りをして下さり、その甲斐あって鬼怒川の水が溢れなくなり、村の方々は喜んで、祚連律師の為に小さなお堂を建てて、奉ったとの事です
それが旧結城寺=大金釗宝寺と呼ばれるようになり、一時は2000人のお坊さんが出入りしていたという
その寺も1441年に起きた「結城合戦」で焼き払われてしまい、以後、結城氏一族の綾戸城主山川氏重により現在の地に再興したというムクドリ
ハナズオウ
八千代町八町の太光山 新長谷寺は、八町観音とも呼ばれている
町指定有形文化財の本堂には、県指定有形文化財の木造十一面観音立が祀られる
鎌倉時代の貞永元(1232)年、結城氏の始祖結城七郎朝光(ゆうき しちろう ともみつ、源頼朝の側近。)が、源頼朝に従い鎌倉に滞在中、名工運慶(うんけい)作の十一面観世音を拝して心打たれ、これを持ち帰り、常陸国下妻郷の景勝の地に八町歩の寺領を有して八町村と命名し堂搭を建立、安置したのが始まりとされる
結城朝光とは、下野国の大豪族・小山政光と寒河尼の子で、兄には小山朝政がいます。
母親の寒河尼(さむかわのあま)は頼朝の乳母も務めており、朝光と頼朝は乳兄弟の関係となり、頼朝の側近として可愛がられ、頼朝の寝所を警護する11名に抜擢され鎌倉に仕えた
二度の火災で多くの建物、寺宝、記録など焼失してしまう中、現存の観音堂は江戸時代中期の享保21(1736)年に上棟されたもので、寄棟造銅板葺、桁行三間(11.13ⅿ)、梁間三間(11.13ⅿ)、高欄附回縁のある欅造(一部樅・檜・杉)として再建され、江戸時代当地方の真言宗寺院建築の基準作例として貴重な建造物であり、しかも建造過程や仕様を詳細に記録した2枚の板や棟札が残されており県内でも他に類例をみないものである町発行の「八千代の文化財」によると、本尊は仏像の保全修理で解体した際に内部に墨書銘があり、仏師院祥(いんしょう)による貞和6年(1350年)の作と判明したそうで、どの寺も本尊の生い立ちを歴史になぞらえるのが上手いようだ
ボタンの花で、東国花の寺百ヶ寺、茨城8番札所となっている
アヤメ科のダッチアイリス
シャガ
お昼を過ぎてしまい、近くのレストランを検索し、ゑびすやへ向かっていたら、突然現れた大きな鳥居がいくつも並ぶ、参道入り口
アヤメ科のダッチアイリス
シャガ
お昼を過ぎてしまい、近くのレストランを検索し、ゑびすやへ向かっていたら、突然現れた大きな鳥居がいくつも並ぶ、参道入り口
創業明治元年からこの「大宝」という地で商売を始め、鶏ガラと豚骨をブレンドしたスープ、程よい脂の入った豚肩ロース肉を使用し、熟成の醤油タレに付け込んだチャーシュウ、仕上げに野菜をブレンドした、この土地の名前から開運・招福をもたらす一品の「宝ラーメン」
ざるうどんをいただく
食後に大宝八幡宮へ
関東最古の八幡様を謳うここは、大宝元(701)年、藤原時忠が当地へ下向の時、東国平定のための鎮護の神として、筑紫(大分県宇佐市)の宇佐八幡宮を勧請(神仏の分霊を請じ迎えること)して創建されたという
「大宝」という地名は、創建時の年号の「大宝」に由来し、年号は、タイホウと読むが、地名は、訛ってダイホウと呼ばれている
食後に大宝八幡宮へ
関東最古の八幡様を謳うここは、大宝元(701)年、藤原時忠が当地へ下向の時、東国平定のための鎮護の神として、筑紫(大分県宇佐市)の宇佐八幡宮を勧請(神仏の分霊を請じ迎えること)して創建されたという
「大宝」という地名は、創建時の年号の「大宝」に由来し、年号は、タイホウと読むが、地名は、訛ってダイホウと呼ばれている
暦応4(1341)年に春日中将顕国が興良親王を奉じて入城し、北畠顕家が入城した関城とともに南朝方の拠点であった
そのため足利尊氏の重臣、高師冬にたびたび攻撃され、たった2年の後に、小笠原貞宗の大軍によって攻められ落城し、下妻氏も一代限りで滅亡した
南の三の鳥居口を「大手口」、東の鳥居口を「搦手口」と呼ぶのは、城の名残
随身門(神門)と呼んでいるが、仁王様が立つ
奉献された狛犬が列をなしている
ハナモモか、あるいはキクモモか
瑞花雙鳥八陵鏡・丸木舟・銅鐘(いずれも県指定文化財)を保管している
神楽殿は、かつては本殿の東にあったが、境内の整備にあたり移築され、祭事には、十二座神楽などの奉納が行われているそうだ
明治の神仏分離により外され宝蔵されていたが、平成の世になり復建した鐘楼は蝉鐘楼と呼ばれ、1387年の鋳造、多賀谷氏が戦利品として奉納したらしい
南の三の鳥居口を「大手口」、東の鳥居口を「搦手口」と呼ぶのは、城の名残
随身門(神門)と呼んでいるが、仁王様が立つ
奉献された狛犬が列をなしている
ハナモモか、あるいはキクモモか
瑞花雙鳥八陵鏡・丸木舟・銅鐘(いずれも県指定文化財)を保管している
神楽殿は、かつては本殿の東にあったが、境内の整備にあたり移築され、祭事には、十二座神楽などの奉納が行われているそうだ
明治の神仏分離により外され宝蔵されていたが、平成の世になり復建した鐘楼は蝉鐘楼と呼ばれ、1387年の鋳造、多賀谷氏が戦利品として奉納したらしい
樹齢約100年のイチョウの御神木
拝殿
拝殿の扁額
社務所の入り口に、大黒さまと恵比寿さま
白い石に願い事を書いて奉納する
本殿は、天正5(1577)年、時の下妻城主多賀谷尊経(重経)が再建したもので、国の重文
本殿の扁額
摂社の黒鳥神社は、八幡宮が創建される前に当地の地主の神として祀られていた、大国主命と少彦名命を祀る
江戸時代末頃に飛騨の匠によって建造されたという祖霊殿
旧大宝寺護摩堂であったが、廃仏棄釈の折にも破棄されずに残ったもので、現在は歴代の別当や宮司とともに神葬家の御霊が祀られているという
源頼朝が下河辺行平に命じて勧請させたという「若宮八幡宮」
拝殿
拝殿の扁額
社務所の入り口に、大黒さまと恵比寿さま
白い石に願い事を書いて奉納する
本殿は、天正5(1577)年、時の下妻城主多賀谷尊経(重経)が再建したもので、国の重文
本殿の扁額
摂社の黒鳥神社は、八幡宮が創建される前に当地の地主の神として祀られていた、大国主命と少彦名命を祀る
江戸時代末頃に飛騨の匠によって建造されたという祖霊殿
旧大宝寺護摩堂であったが、廃仏棄釈の折にも破棄されずに残ったもので、現在は歴代の別当や宮司とともに神葬家の御霊が祀られているという
源頼朝が下河辺行平に命じて勧請させたという「若宮八幡宮」
若宮八幡宮の建物は茅葺きで損傷も出ていたので、現在は保護するための覆い屋が作られている
利休梅というらしい
シロヤシオも咲いていた
八幡宮を出て北東へ回り込むと、大宝城の外堀の下に出る
その向かいにある敵返不動尊
左右二つのお堂がある
供養塔が多数転がしてある
向かって右のお堂が、大宝十一面観世音堂
利休梅というらしい
シロヤシオも咲いていた
八幡宮を出て北東へ回り込むと、大宝城の外堀の下に出る
その向かいにある敵返不動尊
左右二つのお堂がある
供養塔が多数転がしてある
向かって右のお堂が、大宝十一面観世音堂
盗難防止のためか、鉄の柵がありお顔が拝見できません
左が敵返不動尊堂
不動明王像があります
家に戻る途中、真岡市久下田西の白蛇辨財天(はくじゃべんざいてん)
大永2(1522)年に、安芸の宮島厳島より今の古池ヶ渕に市杵嶋姫命を御分霊し、お祀りしたと伝えられている
吉凶異変があると姿を現したという二匹の白蛇
白蛇の予知と辨財天の霊護により災いを免れ、病は治り、富を築いたと伝えられている
市杵嶋姫命は、もとは宗像大社がお祭りしている宗像三女神の一柱とされる神様で、その分霊を受けた弁財天とは、神仏習合そのもの
御本殿地下深くより湧く金運銭洗いの滝の御神水は霊水として信仰されており、金運銭洗いの滝と呼ばれている
香の煙が西日に光り、美しい
社務所
社務所の脇には市神社があり、稲倉魂命(看板のまま)、保食神(うけもちのかみ)、大田命(おおたのみこと)を祀る、お店の御守護と商売の神様
白蛇辨財天の本殿
今日も盛りだくさんの一日でした
左が敵返不動尊堂
不動明王像があります
家に戻る途中、真岡市久下田西の白蛇辨財天(はくじゃべんざいてん)
大永2(1522)年に、安芸の宮島厳島より今の古池ヶ渕に市杵嶋姫命を御分霊し、お祀りしたと伝えられている
吉凶異変があると姿を現したという二匹の白蛇
白蛇の予知と辨財天の霊護により災いを免れ、病は治り、富を築いたと伝えられている
市杵嶋姫命は、もとは宗像大社がお祭りしている宗像三女神の一柱とされる神様で、その分霊を受けた弁財天とは、神仏習合そのもの
御本殿地下深くより湧く金運銭洗いの滝の御神水は霊水として信仰されており、金運銭洗いの滝と呼ばれている
香の煙が西日に光り、美しい
社務所
社務所の脇には市神社があり、稲倉魂命(看板のまま)、保食神(うけもちのかみ)、大田命(おおたのみこと)を祀る、お店の御守護と商売の神様
白蛇辨財天の本殿
今日も盛りだくさんの一日でした
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