1/29/2024

2024/1月の散歩(真岡)

2024/1/29
真岡市東郷の延喜式内社大前神社は、幾度となくお参りさせていただいているが、今年は辰年なので再訪問させていただく
その後真岡市長沼の長沼八幡宮へ
こちらも龍の彫り物が立派

なぜか飛行機のプロペラが額の下に飾られている

本殿も大きな造りだ



1/28/2024

2024/1月の散歩(太々神楽)

2024/1/28
宇都宮市馬場通りの二荒山(ふたあらやま)神社の境内にある神楽殿で奉納される、太々神楽を見に行く
この神楽は江戸系神田流をくむ「宮比流(みやびりゅう)太々神楽(だいだいかぐら)」で、江戸時代中期ころから、中断と復興を経て現在は1月・5月・9月の28日に年3回、神楽保存会により行われている
今日は8演目が奉納されるが、休憩をはさみ午前午後に分かれており、3演目を見て満足してしまった
「猿田彦の舞」
猿田彦命は、道の神、道案内の神、旅人の神とされました。
神話の中で、国譲りが成立し天孫降臨の際に、天照御大神の孫にあたる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)をご案内しようと、道の途中でお待ちしていた神様で形相は天狗のイメージです。
邪魔者を払いのけながら先導した故事にちなんで「みちびきの神、みちひらきの神」として祀られています。


「二神の舞」
天の神と地の神の二つの神が舞う






「八幡の舞」
九州宇佐八幡宮に祀られている武勇の神 八幡麻呂(応神天皇)が、異国から飛来した第六天の悪魔王が人々を殺害しているのを聞き、神通の弓、方便の矢をもって退治する







伝統文化の継承に努力されていることはわかるが、難題が山積みと見た
昼食にあげぱん屋へ向かうが、営業しておらず、餃子の来らっせは30分待ちなので、オリオン通りで見つけたベトナム料理「Xin Chào Việt Nam」へ
先客の2人は、日本以外のアジア圏人、後から入店したカップル2組もアジア圏人だったので、本場料理を期待する
Phở bò chínの牛肉は、一部硬くて食べにくかったが、スープはしっかり味で、パクチー多めで嬉しい
bánh mì pate thịt nướngは、具が少なく、パンも日本の揚げパンで、これはダメだ
奥のNem rán (Chả giò)は、細くてちっちゃ
値段を含めて、再来は無いな

1/24/2024

2024/1月の散歩(足利、佐野)

2024/1/24
佐野市多田町の賀茂別雷(かもわけいかづち)神社
天智8年(669)菊沢山の中腹に社殿を建てたのが始まりという、古社
本殿は宝暦11年(1761)の建築で、明治43年(1910)現在の奥宮の場所から遷座された

紅梅が咲いていた
本殿には彩色が施されているようだ
境内社の産泰(さんたい)神社と機姫(おりひめ)神社
佐野市戸室町のそば処 松で昼食
開店の5分後に到着したが、10台ほどの駐車場には、空きが2台というほどの大盛況
樹齢約300年という赤松が、店の名の由来
ここの名物は季節ごとの変わり蕎麦
初めての訪問なので、通年出されている、とうがらし切り蕎麦との合いもりをいただく
じんわりと効いてくる唐辛子の辛みがリフレッシュとなり、常陸秋そばを自家製粉した二八もりそばの味も盛り立ててくれる
つゆは醤油濃いめかと思ったが、食べ進めるうちにちょうど良い感じになる
お任せ天ぷらも、上手に仕上がっていた
2人でまかなっているようで、空のツユ差しが出されたり、そば湯が出てこなかったりはご愛敬

足利市常見町の天台宗 明星山 神楽院 正善寺(しょうぜんじ)
1700年頃、覚永僧都による開山とされる



御本尊の阿弥陀如来は、昭和51年に日光山輪王寺より勧請(かんじょう)された、身の丈約1m、製作は鎌倉中期とされ、日本で最初の仏師とされる定朝様式(じょうちょうようしき)の阿弥陀如来とされており、栃木十三仏の第13札所とされている
正善寺は、足利市最大で6世紀後半の前方後円墳の上に建てられてあり、石室から観音像が出土した
石室開口部には鳥居が立ち、石室内には弁財天が祀られている

石室の中に入ってみた

足利市猿田町の天台宗 妙心寺派 萬壽山 徳蔵寺(とくぞうじ)


本尊は弥勒菩薩だが、三面出世大黒天を祀り、足利七福神になっている
慈覚大師円仁の作と伝えられる愛染明王像(市指定重要文化財)を安置する、愛染堂


前面の中央部に梵字が書かれ、それより下に銘を彫刻している、かな地蔵尊(県有形重要文化財)
五重の千庚申塔(県民俗重要文化財)



五百羅漢像を収める五百羅漢堂は、文化10年(1813)の建立
一本造り眼は彫眼の羅漢尊を、五百体10段にならべたものは日本にも珍しく(県有形文化財)、鎌倉の建長寺、九州耶馬渓の羅漢寺、足利の徳蔵寺を、日本三大五百羅漢尊と称する





足利市伊勢町の足利伊勢神社

平安時代中期の仁平元年(1151)の創建とされ、足利庄伊勢宮として、皇祖天照皇大神を奉斎して鎮祭され、新田、足利両家の累代をはじめ、鎌倉時代には源氏、殊に足利氏、尊氏、持氏、成氏等累代や衆庶の人々が連綿と崇敬され、足利尊氏の父貞氏の文書によれば、鑁阿寺の東南にある伊勢宮の勧請は、足利家の武運を祈るためのものであり、先例に任せ怠漫なきようとの指示があり、この伊勢宮に由来するものと考えられる

祭神の天照皇大神は日本民族の大御祖神


境内社に祀られる豊受皇大神は、衣食住をはじめ、全ての産業を守護下さるご神徳の高い神様
本殿の裏側から

足利市八幡町の下野國一社八幡宮
寛政4年(1793)佐野天明鋳物の荒井宗明および丸山長暉の合作を有志が奉納した銅像鳥居
天喜4年(1056)八幡太郎の名で有名な源義家が、陸奥の豪族安倍頼時父子との戦い(前九年の役)に赴く途中、戦勝を祈願して山城の国(現京都府)の男山八幡宮を勧請し創建
源姓足利氏の庇護の下で隆盛したといわれる
足利荘にあったため古くは足利荘八幡宮と呼ばれ、また下野国第一の八幡宮という意味で下野國一社八幡宮あるいは一國一社八幡宮とも称されてきた
現在の社殿は文化11年(1814)の再建で、幣殿・拝殿は平成8年~9年(1997)にかけて保存修理された

祭神は譽田別命、大帯姫命、姫大神

八幡宮の祭りである放生会(ほうじょうえ)の碑



榎木稲荷(榎大六天神あるいはお万榎稲荷神社)、伏見稲荷と並び、日本3大縁切稲荷の1つに数えられ、縁切は勿論のこと、病気・災難・厄除にも霊験あらたかな門田稲荷神社

足利市島田町の八坂神社(やさかじんじゃ)前にある、御厨(みくりや)神社は、御厨地区の戦没者を祀った神社
こちらが島田八坂神社
渡良瀬川の氾濫の度に、決まって『関口』と呼ばれる場所に流れ着く小さなお宮があり、島田の郷の人々は、その都度上流の鎮座地と思われる場所にお返し奉斎していたが、天慶二年(939)にまたも流れ着いた緑町の八雲神社の境内社を、島田村民等が祀ったものという
祭神は須佐之男命
嘉永4年(1851)本殿を改築
明治43年、神社合祀政策により村社稲荷神社に合併されたが、村民の努力で大正14年に復旧が許可され、現在に至る
立派な拝殿と本殿だ
ご神木と思われる木が本殿左にあったが、切り株となっており、今はエノキが存在感を示す
佐野市天神町の朝日森天満宮
梅の並木が有名だが、まだこれからだった


平安時代の治安3年(1023)藤原秀郷公の七代足利家綱が、無実の罪におとしいられし時、大宰府天満宮に参篭し一心不乱に祈念した処、ようたく冤罪がはれ、所領が安堵された
家綱は神恩を感謝し、唐沢城中の天神沢に天満宮を勧請し尊崇の誠をつくした
その後、慶長7年(1602)唐沢城を移すにさいし、天満宮も現在地に移され、佐野の氏神として天神様と呼ばれ親しまれてきた

佐野市赤見町の沼鉾(ぬまぼこ)神社
文武天皇2年(698)勧請と伝わる古社
元慶9年(946)藤原秀郷公が御本殿及び拝殿等を再建したといわれる
祭神は伊邪那岐尊、伊邪那美尊
佐野市田沼町の一瓶塚(いっぺいづか)稲荷
文治2年(1186)犬伏町富士(現佐野市)の関東五社稲荷を奉遷し、今の地に遷座したという
祭神は豊受姫大神、猿田彦大神、大宮能賣大神、久々能智大神、草野姫大神
通称、田沼稲荷とも呼ばれる

天保4年(1831)竣工の本殿には、精巧な花鳥霊獣の浮彫、丸彫、透彫、篭彫等が配されている
彫物師は磯部義(儀)左衛門・義平(大平町)といわれている

この龍の形が、どうなっているのかわからないが、爪の向きから降り龍なのでしょう
こちらの龍は、右上に顔が見えるので、昇り龍でしょうか
夕日に照らされて光り輝く社殿を後に、帰路につきます