2026/7/30 (Thu)
白馬村のPensionから、今日は栂池高原にある、自然園へ行く予定だったが、天候が悪そうなこと、高原高山植物には昨日沢山会えたことから、3日目に予定していた「おすわさまめぐり」をすることにした
諏訪湖の南北に、「二社四宮」と呼ばれる四つの諏訪大社があり、「国譲り」の際の出来事に触れられる旅になるかもしれない
最初に来たのは諏訪湖の南、諏訪市中洲宮山にある、「本宮(ほんみや)」
正式には、「諏訪大社上社本宮」で、ほかに「上社前宮」「下社春宮」「下社秋宮」があるが、四宮がともに、延喜式内社(名神大社)、信濃國一之宮、正一位、官幣大社、別表神社で、全国に約25,000社ある諏訪神社の総本社となっており、対立関係は全くなさそうだ
北参道から鳥居をくぐる
社殿の四隅に御柱(おんばしら)が建っており、一之御柱は長さ五十五尺
諏訪大神の神霊が宿る守屋山を仰ぐ形の建物は、元禄3年(1690)諏訪高島藩によって建てられた「勅願殿(ちょくがんでん)」で、国の重文
参拝所から望む「幣拝殿」だが、その奥に本殿は無い
現在の建物は江戸時代の末期 天保2~9年(1831~1838)までの8年の歳月を要して、2代目 立川和四郎富昌が次男の富種や地元神宮寺の宮大工 五左衛門新成と共に建立した
ちょうど祝詞があげられていたが、祭神の建御名方神(
タケミナカタ/お諏訪さま、国津神の主宰神
オオクニヌシと
ヌナカワヒメとの子)は、どこに祀られているのだろう?
幣拝殿の左手に回り込むように、東参道が伸びている
現在は神楽殿の修復工事が行われている
幣拝殿の左右に「東宝殿」と「西宝殿」があり、本宮で一番大切な社殿だという
神輿の納められる宝殿は「神殿」と呼ばれて祭祀が行われ、もう一方は「権殿」と呼ばれる
数え7年ごとに行う御柱祭で、宝殿を交互に建替え、収められている諏訪大神の神輿をお遷すという
寅年から申年の間、神輿は向かって右の宝殿に、申年から寅年の間は、左の宝殿に納められるというが、午(うま)年の今年は右の宝殿、つまり上の写真の宝殿に神輿があるのだな
大国主神(
オオクニヌシ/大國さま、スサノオの直系子孫でタケミナカタの父)を祀る「大国主社」
「摂社末社遥拝所」は、上社に特に関係の深い摂社や末社の神号殿で、朝夕遥拝される
東参道の長廊は約70m、三十八間あり、風鈴飾りが吊るされていた
明治維新までは上社の大祝のみ通った廊下で、その時は布を敷いたことから「布橋」と呼ばれる
参詣者の祈願やその御礼として奉納された額や絵馬を収めた所で、「額堂」または「絵馬堂」
中には「神楽殿」の改修に伴い移動してきた、竜神が彫られた大太鼓が収められていた
お諏訪さまの御子神 出早雄命(いずはやおのみこと、タケミナカタと八坂刀売の次男)を祀る「出早社」
古くからイボ神様として敬われ、小石を捧げてイボの全快を祈る風習があるらしい
本宮側から見上げる、東参道の鳥居
「入口御門」とも呼ばれる「布橋」の東口
その隣に立つ、「二之御柱」
残る2本の御柱は守屋山側にあり、入り込めないエリアだ
諏訪大社の神紋「諏訪梶の葉」
上社が四根の梶で、下社は五根の梶だというが、
梶(かじ)の木は暖地に多いクワ科の落葉喬木で、諏訪の地の自生の植物ではなく西日本、特に四国山地に多く自生しているという
お諏訪さま/建御名方神は、阿波国名方郡諏訪村(旧高足(タカシ)郷)の出で、長野県の南方刀美神社(延喜式神名帳には南方刀美神社(みなかたとみのかみのやしろ)と書かれる、現在の諏訪大社)は、記紀の成立後に、阿波から移遷勧請されたことが、徳島県の多祁御奈刀弥神社の社伝記に遺っているらしい
これは「梶の葉」の神紋と合致する、興味深い話だ
東参道の鳥居下のもう一社「神馬舎」は「駒形屋」とも言い、諏訪大神の御神馬の屋形とされる
諏訪湖に御神渡りができた朝、御神馬の身体中が汗で濡れており、お諏訪様が御神馬で湖上を渡られるのだと驚き畏れたいふ
東参道の鳥居から、現生に戻る
「入口御門」のあるこちら側が、本来の諏訪大社本宮入り口なのだろう
東参道と言われる鳥居正面の道は「神宮寺」へと続いていたが、神仏分離で神宮寺は廃寺となったようだ
守屋山へ向かう道には、明治以前の遺構が残っている
今でも残る唯一の寺が、臨済宗 妙心寺派 鷲峰山 法華寺(ほっけじ)
入母屋造の山門
創建は弘仁6年(815)、最澄による開基とのこと
もとは天台宗の寺院から、鎌倉期に諏訪氏によって臨済宗に改められたようだ
本尊の釈迦如来は永仁2年(1294年)の胎内銘があり、脇侍に普賢・文殊両菩薩を持つ三尊仏
天正10年(1582)織田信長の甲州征伐で、信長がここに滞陣し、甲信地方の知行割を行い、国掟を発したと、『信長記』に書かれている
信長の滞陣前に信長の嫡男 信忠は、武田家が諏訪明神を篤く信仰していたことを理由に、諏訪神社上社の全てを焼き払ったという
さらに法華寺滞在中に、織田信長軍と明智光秀軍が、軍事演習として模擬合戦をおこない、勝った光秀を負けた信長が良く思わなかった、という伝承があるといふ
元禄15年(1702)赤穂浪士 大石内蔵助らの吉良邸襲撃によって打たれた、吉良上野介義久の養子、左兵衛義周
寺の裏山には、赤穂事件当日の対応が「仕方不届」であったとして、改易されて配流された吉良義周の墓がある
配流先の諏訪藩で21歳にて病死、高家吉良家は断絶したといふ
法華寺から本宮に戻り、社務所で御朱印をいただく
江戸時代初期における高島藩中興の藩主三代を祀る「高島社」
江戸時代に活躍した信州出身の大力士「雷電」の等身大像
でか!
参道の茶屋で、冷やし甘酒とところてんをいただく
ようやく一社目の参拝を終え、同じく諏訪湖の南、茅野市宮川にある上社前宮(かみしゃまえみや)へ
小雨が降り始めたので、傘をさして鳥居へ
祭神が最初に居を構えられた、諏訪信仰発祥の地とも伝わる
二の鳥居前の広場一帯を「神原」と言い、社伝によれば、諏訪大神が初めて御出現になられたのがこの地だと伝わる
この神原一帯は上社の祭祀の中心地であり、御祭神の後裔で諏訪大神の神格を持った生き神、大祝(おおほうり・最高統轄者)の居館である神殿と、それに付属する数多くの重要な建物が軒を連ねていたが、室町時代の中葉に大祝が居館を他に移したので、多くの神殿は消滅し、現在祭儀だけが残っているという
鳥居の左側の大きな建物は、間口三間、奥行が十間あることから「十間廊」と呼ばれ、昔は「神原廊」とも言い、神社でも最大の神事である三月酉の日の神事御頭祭(大立増神事、酉の祭り)がここで行われた
当日は大祝以下の全神職が総出で奉仕し、鹿の頭七十五頭をはじめ、鳥獣魚類等独特のお供え物をし、大祝のお使い(神使)神霊を奉じて、信濃国中に出発する為の大祭だった
諏訪明神の祖霊がやどるといわれる御神宝が安置されていた「内御玉殿」
神原から200m程で「前宮拝殿」があり、その手前を流れるのは御神水である「水眼(すいが)の清流」
静かな佇まいの「前宮拝殿」
祀られているのは本宮と同じ、建御名方神(
タケミナカタ/お諏訪さま、国津神の主宰神
オオクニヌシと
ヌナカワヒメとの子)とその妻、八坂刀売命(
やさかとめ)
古文書には、前宮の本来の祭神は「二十の御社宮神(ミシャグジ)」であるという
「諏訪明神に神体なく大祝をもって神体となす」とされるようだが、前宮には本殿があり、伊勢神宮から頂いた古材で建てられたという
拝殿の背後に見える八ヶ岳には、諏訪大社の奥宮があるという
行かなきゃならないじゃん
上社前宮も本殿を取り囲むように、4本の御柱が立っており、上社本宮と前宮の御柱先端の御幣(大木が神(御神木)に変わるための最も重要な神具)が、八ヶ岳の方向を向いているそうだ
社殿右手前の御柱が「一之御柱」で、上の写真は左手前の「二之御柱」、左奥が「
三之御柱」、右奥が「
四之御柱」と決まっているらしい
一之御柱前から本殿を見ているが、墳墓は探さない方がよさそうだ
アイスクリーム売店に同居するおしゃれな社務所で、御朱印をいただく
山歩きではないので、昼食は少し良いものと、信州そば「そば蔵」へ
甘皮まで挽き込んだ、そばの風味が豊かな十割そば
乱切りにすることでそばの角が立ち、つゆによくからみ、もっちりとした食感を堪能
食後は諏訪湖の北岸の諏訪郡下諏訪町にある、諏訪大社下社2宮めぐり
最初は「下社秋宮」
その前に、駐車場横にある「専女(とうめ)の欅(けやき)」
樹齢約千年といわれるニレ科の諏訪町指定天然記念物
神橋を渡り鳥居をくぐる
正面に見える大きな木は、枝が垂れ下っていて眠っているように見えるので「寝入りの杉」とか、杉の挿木に根が生えたことから「根入りの杉」と呼ばれる、樹齢600〜700年のスギ
狛犬を両脇に従えた三方切妻造りの大きな建物は、拝殿ではなく「神楽殿」国の重文
御柱祭のたびに新調されるしめ縄は、長さ約13m、重さ推定1t
天保6年(1835)上社本宮と同じ立川和四郎2代目棟梁 富昌が建築した、神楽殿の内部
一般的な神楽殿は演者のための舞台だが、ここでは室内観賞できるようだ
神楽殿の背面に堂々と現れたのは、二重楼門造りの「幣拝殿」と、左右に延びる「片拝殿」は、安永10年(1781)初代立川和四郎 富棟の棟梁で落成の国の重文
祀られているのは上社と同じ、建御名方神(
タケミナカタ/お諏訪さま、国津神の主宰神
オオクニヌシと
ヌナカワヒメとの子)とその妻、八坂刀売命(
やさかとめ)
「幣拝殿」と「片拝殿」の隙間から垣間見れる、左右に二つ並ぶ神明造りの建物は、上社本宮と同じく本殿ではなく「宝殿」で、さらにその奥にご神体である「イチイの木」がある
通路にかかる神紋が、下社の「五根の梶」
御柱先端の御幣は、八ヶ岳ではなく正面を向いている
「下社秋宮」の参道をまっすぐ伸ばすと、御嶽山の南を通り名古屋の北を抜け、明日香村、高知県を抜けて霧島連峰に達するが、意味があるのか?
拝殿左に並ぶ、4つの末社は、右から
- 八坂社:素戔鳴尊(スサノオ、八坂神社の主祭神)、八柱御子神(やはしらのみこがみ、スサノオの8人の子供たちの総称、八坂神社の祭神)、奇稲田姫命(クシナダヒメ、ヤマタノオロチを退治したスサノオの最初の妻)
- 賀茂上下社:賀茂別雷神(初代神武天皇の兄弟)、玉依媛命(タマヨリビメ、オオワタツミの娘、初代神武天皇の母)、建角身命(カモタケツヌミ/八咫烏、下鴨神社の祭神)
- 子安社:高志沼河姫命(ヌナカワヒメ、建御名方神の母、奴奈川神社の祭神)
- 鹿島社:武甕槌命(タケミカヅチ、鹿島神宮の祭神)
- 皇大神宮社(末社):天照大神(アマテラス)、豊受大神(トヨウケビメ、伊勢神宮の祭神)
- 若宮社(摂社):お諏訪さまの御子神十三柱
- 稲荷社(末社):倉稲魂神(ウカノミタマ、スサノオの子)、大宮賣命(オオミヤノメ、アマテラスの侍女)、佐田彦命(サルタヒコ、ニニギ天降り時の先導者)
「宝殿」を右手から覗く
社務所で御朱印をいただく間に、「双龍の手水」があり、左が冷水、右は温泉水
上社にお住まいになられた女神様(八坂刀売神(
やさかとめ))が、日ごろ化粧に使われていた湯を綿に含ませて下社に渡られたおり、その時滴り落ちた湯が、上諏訪から下諏訪にかけての温泉だと言われている
最後にその綿を置いたところが下社の地で、そこからすさまじい勢いで湯が噴出しため、「綿の湯」と呼ばれるようになり、神社に属する神聖な精進の湯とされ、不浄な者が入るとたちまち湯が濁ったといふ
厳冬期に全面凍結した諏訪湖に亀裂が入り、巨大な氷の筋が山脈上に湖面を走る現象を「御神渡(おみわたり)」「御渡」というが、上社の男神(
タケミナカタ)が下社の女神(
やさかとめ)のところに通った道だという謂れもある
政治(まつりごと)が占いによって行われた時代には、この御神渡の方向や形によってその年の吉凶が占われたほど、この宣託は、国家にとって非常に重要だったという
秋宮敷地内の小高い場所にある「恵比寿社」は、出雲大社及美保神社からはるばる分霊を受け、諏訪大神の父神 大國主神(
オオクニヌシ/大國さま)と兄 事代主大神(
コトシロヌシ/恵比寿さま)を祀る
「恵比寿社」の隣の「八幡社」には、天神様と貴船様(水の神)を祀る
御影石の大鳥居は万治2年(1659)建立と推定され、境外にある「万治(まんじ)の石仏」と同じ作者といわれます
春宮と秋宮の社殿建替えの際に、諏訪藩から同じ絵図が与えられたといわれ、その構成は瓜二つ
手前に「神楽殿」、奥に「拝殿」
今まで見た神社の神楽殿は、拝殿・本殿に90度横を向いていたが、一直線に並ぶのは諏訪大社の下社(秋宮・春宮)が初めてだと思う
お諏訪さまの母神である高志沼河姫命(
ヌナカワヒメ)をお祀りする「子安社」
春宮の参道を延長すると、諏訪湖を渡り、上宮のご神体とされる守屋山にぶつかる
秋宮と同じ図面ながら、異なる棟梁が彫り物などで技を競うように制作したという
秋宮のイチイの木に対して、春宮では杉の木のご神体
奥には横に二つ並んだ「宝殿」
垢ぬけた感じの秋宮、渋めの春宮
左に御子神十三柱を祀る「若宮社」、右に上社の祭神(
タケミナカタ)を祀る「上諏訪社」
四宮目の疲れもあるが、気温が上がりそろそろ限界
御手洗川に架かる屋根付きの反り橋「下馬橋」別名「太鼓橋」は、鎌倉時代の建築様式で室町時代の建立とされ、下社では最も古い建物で、遷座祭の神輿だけがこの橋を渡るという
御手洗川は別の場所なのか、埋め立てられたのか?
「万治の石仏」まで徒歩3分とのことでしたが、あまりに暑くて断念しましたが、二社四宮めぐりを完了しました
毎年8月1日に春宮から秋宮へ、2月1日には秋宮から春宮へ神様(神輿)を遷す神事、遷座祭が行われ、付近の交通規制が引かれると、ラジオで言っている
特に8月の遷座祭の前夜には宵祭りが行われ、長持ちや神輿などのパレードが華やかに行われるほか、遷座祭当日には、柴舟とよばれる長さ約10メートル、重さ約5トンもの巨大な舟を曳行する「お舟祭り」が開催され、町中が熱気に包まれるというが、それって明日じゃん!
白馬への帰路、
松本城に行きたかったのだが、入場時間ギリギリになってしまい、松本城の外堀を周り、松本市大手の「四柱(よはしら)神社」へ
ここも夏祭りの露天が、準備万端
大政奉還の後に明治維新を迎え、明治天皇が自ら直接政治を執り行う(明治天皇御親政)を祝い、一社を興したという近代神社
祭神は、天之御中主神(
アメノミナカヌシ)、高皇産霊神(
タカミムスヒ)、神皇産霊神(
カミムスビ)の造化三神(天地開闢の別天津神(ことあまつかみ))と、天照大神(
アマテラス)の三貴神であり地神五代でもある四柱の大神
胡散臭いね
松本城下町で有名な「なわて通り」は、女鳥羽川の土手沿いに長屋風に軒を並べる商店街
若い観光客には良いかもしれない
NHKで放映中のドラマ「勿忘草の咲く町で 〜安曇野診療記〜」を観ており、ロケ地に違いない建物があったので、確認してきた
劇中の病院屋上から見える北アルプスの山並み、眼下を流れる犀川(さいがわ)から、この辺だよ~と言っていたら、全く同じ建物があった
北安曇郡池田町の北アルプス医療センター「あづみ病院」が、まさに劇中の「梓川病院」
さらに駐車場向かいに花屋があったが、ドラマの舞台ではなかったようだ
今年
4月の富士旅行でのドラマ「Hot Spot」に続き、ドラマの聖地めぐりみたいだな
夕食は白馬村まで戻り、「蕎麦酒房 膳」
店内客の8割はいわゆる外国人だが、旅行者ばかりではなさそうだ
白馬村の総人口に占める外国人の割合を調べたらなんと、12~18%だという
昨晩から世話になっているロッジの亭主も、オーストラリア人だもんな
繁華街(といっても白馬村では知れてるが)で、カフェのテラスで変な時間に楽しそうに家族で食事をしている風景は、まさにシンガポールを思い出したが、この子たちは普通に地元の学校に通い、日本語もしゃべるだろうし、土地っ子のガキどもも英語がペラペラになるんだろうな
ちなみに住民は白人系ばかりです
関東エリアで外国人といえば、東南アジア系労働者だから、子供の数は限られていて、学校教育への入り込みは少ないだろう
すると数年後には、白馬やニセコの子供たちは、英語がペラペラになっているのかもしれない
連泊中の宿は、オーストラリアから移住してきた青年とGFが切り盛りする「Snowhere Ski Lodge」
露天風呂もある
2026/7/31 (Fri)
翌朝、オーナー家族と静岡からの連泊客とあれこれと話が弾み、出発が30分も遅れてしまったが、この花は前のオーナーからの鉢だそうで、キレンゲショウマ(黄蓮華升麻)の花は初めて見た
絶滅危惧II類(VU~EN)だという
西日本に自生するようだが、白馬の自然環境でも、元気に育っているようだ
さて、今日は「
松本城」へ登り、「美ヶ原高原」を歩く予定