2026/7/30 (Thu)
北側の市営駐車場に車を停めるが、本丸に入るにはぐるりと南面に回らなければならない
内堀にかかる赤い「埋橋」と鏡面松本城
2011年の長野県中部地震により、埋門の石垣がずれたため、以来通行禁止となっている
現存する五重六階の天守では、日本最古の城だという
姫路城、彦根城、犬山城、松江城とともに、国宝に指定されている天守
城跡一帯は、国の史跡だという
信濃の守護 小笠原氏が、戦国乱世のため3km東の山麓に山城(林城)を造り、家臣たちが周辺に支城を構えて守りを固めた
その支城の一つが深志(ふかし、後の松本)の深志城で、永正年間(1504~1520)に造られたといわれる
天文19年(1550)小笠原長時は甲斐の武田信玄に攻め込まれ、信濃を追放された
信玄は林城を破却し、深志城代として馬場信春を配置し、松本盆地を支配下に置いた

現代における入城は午後4:30までのため、明日朝から攻め落とすことにし、今日は
城下町散策とする
2026/7/31 (Fri)
出発が少し遅れたが、予定通り松本城を攻略する
信濃の小笠原氏が甲斐の武田氏に敗れ、馬場信春が城主となった深志城だが、天正10年(1582)武田信玄が死亡し、織田信長が本能寺の変で打たれ、その後の天正壬午の乱において、越後の上杉景勝に擁立された小笠原洞雪斎が深志城を奪還した
さらに徳川家康の麾下(きか・部下)となった小笠原貞慶が旧領を回復し、松本城と改名した
天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏が滅亡し、徳川家の関東移封により、当時の松本城主 小笠原秀政も下総国古河へと移った
代わりに10万石城主となったのは、小牧・長久手の戦いの後に徳川家を出奔して秀吉の下へ走った石川数正で、家康に対する牽制・防衛のためだといわれている
その後石川数正と長男 康長は、松本に権威と実戦に備えた三重の水堀をもつ雄大な松本城の築城、街道につないで流通機構の経路を掌握するための城下町の建設、五層六階天守の造営など、政治基盤の整備に尽力した
黒門にいた兵に、1200円をNet経由で渡すと、簡単に本丸に入れた
1591年に築かれた、連結式望楼型5重6階の天守構造
左手前に突き出す形の「月見櫓」は、江戸幕府第3代将軍 徳川家光が長野の善光寺に参拝する途中で、松本に立ち寄るという内意を受けたため、当時の藩主 松平直政が建てた
家光の善光寺参拝は中止になったが、赤い欄干を配して、風雅な雰囲気を持つ遺構となった
江戸時代に入ると、大久保長安事件により石川康長が改易となり、小笠原秀政が再び入城
大坂の陣以後は、松平康長や水野家などの松本藩の藩庁として機能した
水野家の後は、松平康長に始まる戸田松平家(戸田氏の嫡流)が代々居城とした
最上階の望楼天井には、松本城の守り神「二十六夜神」が祀られる
元和4年(1618)本丸御殿で夜勤をしていた持筒頭の川井八郎三郎が、月の出た刻に名を呼ばれ振り返ると、緋の袴姿の姫君が、「毎月26日の夜に米を3石3斗3升3合3勺を炊いて藩士に分け与えれば城が栄える」と告げ、天守の上の方に消えた、という伝説が残されている
享保12年(1727)に本丸御殿が火災にあったが、天守は「二十六夜神」のおかげで難を逃れたという
最上階の東の窓からは、この後向かう「王ヶ頭」が見える
北西の北アルプスの山々は、雲に覆われ見えない
天守の中の階段はどこも急で狭いが、大勢で攻め込まれない工夫だろう
堀の一部が、ハスやスイレンの池となって、大きな鯉も泳いでいた