10/31/2023

2023/10月の散歩(笠間)

2023/10/31
地元自治会の秋のバス旅行を主催しました
ゆうきが丘第三自治会と、上神主自治会合同で、笠間に向かいます
お天気に恵まれ、笠間工芸の丘に到着




笠間「森のレストラン Monomi」で昼食


同じ干支の四人組


食後に日本三大稲荷のひとつ、笠間稲荷神社へ
門前通りにある常夜灯
菊祭りが開催されていました
「笠間稲荷と佐白山」として茨城百景に選定されているそうです
ところで、坂本九(本名・大島九(ひさし))と柏木由紀子の結婚式は、笠間神社で行われたそうです
坂本九が、幼少期の2歳から6歳まで戦争疎開していたのが、母、いく江さんの故郷の笠間でした
1943年(昭和18年)10月26日、坂本九はお母さんと二人で、列車に乗っていました
そこに白髪のおじいさんがやって来て、別の車輛に移るよう言ったそうです
おじいさんの言うとおりしたところ、問もなく大事故が発生し、乗り換える前に乗っていた車両は桜川に落ち、百名近い死者が出たそうです(桜川橋梁上列車三重衝突事件)
笠間稲荷の信者だったお母さんは、「 あの白髪のおじいさんの言葉は、笠間稲荷のお告げだったんだ 」と思ったといい、坂本九も笠問稲荷を自分の守り神として信仰してきたという
「うえをむうういて、ああるこおおう」という独特の歌い回しは、実は坂本九が慣れ親しんだ、語尾に特徴のある茨城弁を取り入れたアドリブだったという
この歌いまわしを、作曲した中村八大さんは喜んでくれたが、作詞の永六輔さんは猛反対だったという
家族と笠間神社へ参拝のたびに市内の窯元を訪れ、自分で手ひねりの焼き物を作るのを楽しみにしていたという坂本九
日航機墜落事故の時、遺体の身元判明の決め手となったのは、「笠間稲荷」と自分で掘ったアクセサリーだったというが、お守りだったらひと悶着起きたことだろう
笠間稲荷神社は、白雉2年(651)の創建

狐年女

今日はハロウィンだ

祭神は狐ではなく、須佐之男命(すさのお)と神大市比売神(かむおおいちひめ)の間の御子、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
笠間の秋の味覚、栗のおみくじ
笠間神社の東にあった、城山稲荷神社
「出世稲荷」とも呼ばれる笠間三稲荷のひとつで、佐白山上に祀られていたものを、笠間城築城にあたり、城主笠間時朝により佐白山麓に遷座、新町に遷座し新町稲荷と呼ばれ、時の城主井上正利により居城に遷座、御所替えに際し、現在の地(新町)に遷座し、城山稲荷、城山出世稲荷、子育て稲荷と呼ばれるようになったそうで、転勤を重ねて出世したのだろうか?
佐白山上に鎮座していた八幡宮から移築された本殿は、市指定文化財
笠間稲荷神社に戻り、菊祭りのほうは、菊が間に合っておらず、今だ化粧中でした
本殿は、江戸時代の末期安政・万延年間(1854~1860)の再建で、銅瓦葺総欅の権現造(国の重要文化財)
吉永小百合が座っていたベンチ


バスに向かいます
最後は道の駅で、野菜の爆買い
楽しい一日となりました

10/27/2023

2023/10月の散歩(益子)

2023/10/27
益子町北中の北中八幡宮
ここには、県指定天然記念物、ましこ世間遺産認定No.13の、樹齢800年の大ケヤキがあるという
益子城主因幡守之宗の子孫、石岡三郎右衛門尉が、平家討伐の後京都石清水八幡宮に参詣し、武運を守護されし霊験を厚く謝し御分霊を勧請し、治承年間(1177~1180)にここにお宮を建て、社殿両側にけやき2本を植えて祀ったと伝えられている
1本は、台風で倒木したというが、いつのことかは不明
まっすぐ上に伸びる主幹は、途中でなくなっているが、全体として樹勢はある
なかなかの大木である
主祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)

益子町小宅の亀岡八幡宮拝殿は、明治14年(1881)の造営
その拝殿、神殿の裏に、皇大神宮と伊門神社がある
伊門神社は、第12代景行天皇の御代(実在したとすれば4世紀前期から中期)に、子孫の御諸別王によって第10代崇神天皇の第1皇子豊城入彦命を祭神として祀った、現在の小竹(現鎮座地より南東)の地に建立され、明治初期に遷座したものだという

平安時代中期に編纂された清和、陽成、光孝天皇の代である天安2年(858)から仁和3年(887)の国史で、日本書紀、続日本紀など六国史のうちの一つである「日本三代実録」に記載されている県内屈指の古社で、ましこ世間遺産認定No.41である
亀岡八幡宮の西には、小宅古墳群があり、桜と菜の花が見事だ(参照;2021/4/03
10月後半の今は、当然こうだが
冬桜(フユザクラ、コバザクラ(小葉桜)、Cerasus × parvifolia ‘Fuyu-zakura’)


アーコレード(大山桜と小彼岸との交配種)







十月桜(エドヒガンとマメザクラの雑種と思われる小彼岸系の品種)
などが、あちらこちらに散咲している

ここからの360度パノラマが、ましこ世間遺産認定No.39

芳賀富士が良く見える

招魂社(しょうこんしゃ)
亀岡八幡宮の参道に出る


永承6年~康平5年(1051~1062)の「前九年の役」の際に、源義家公がこの辺りへ進軍した折、石清水八幡宮から勧請して戦勝祈願をしたところ、芦橿沼に神亀が現われ、瑞兆(ずいちょう、良い事が起こる前兆、吉兆)として亀を祀ったとされる
参道の真ん中に、でんと居座る神亀様

亀岡八幡宮には、もう一つの世間遺産
認定No.40、縁結びの木とコウヨウザン


益子町大沢の浄土宗 大沢山 虎渓院 圓通寺
大銀杏は、紅葉とともにましこ世間遺産認定No.31
国指定重要文化財の表門が、日本遺産「かさましこ~兄弟産地が紡ぐ“焼き物語”~」の 構成文化財の一つとして認定されている
応永9年(1402)に建立された表門は、唐様式四脚門形式、切妻造り茅葺き型銅板葺き
柱上は唐様三斗組で、軒廻りは二重繁垂木、懸魚は鰭付きの無形で、天文10年(1541)の火災での焼失を免れた
第10代座主良迦上人の時代に、正親町天皇(おうぎまちてんのう)の勅願所になった以降、天皇の使者だけがこの門を通ることができたという
え、なんかたいそうなお寺さん?
なかなか重厚な感じは、ある
しかし、わりと観光客配慮のある寺とお見受けした

応永9年(1402)良栄上人開基の浄土宗名越派の総本山で、諸国に五百八ヵ寺と称する末寺をもち、江戸時代には十万石の格式をもって幕府に遇された寺院だというではないか
まんが日本昔ばなしにもなっている「鬼のつめ」は、栃木県真岡の話となっていますが、実は益子町にある當山、圓通寺が舞台だという(内容はこちら
正親町天皇(おうぎまちてんのう)の直筆を額に起こした「大澤山(だいたくさん)」の山号額
本尊は阿弥陀如来
馬頭観音を祀る観音堂

石段を上ると、涅槃像

その後ろにある2重の塔は、火災により焼失した大沢文庫の第三書庫を再建した、一切経塔で、県指定重要文化財

名越派の教義を講義・布教するために、大沢文庫(学問所)を設置し、足利学校や金沢文庫と並んで日本3大文庫に数えられ、一番栄えた江戸時代の中頃には、全国から1000人以上の学生が集まってきては、各藩(領地)ごとに分けられ、38つの学寮に寝泊まりしながら、円通寺で学問に励んでいたそうだ
中には村娘と恋仲になり、「所化橋の悲話」という民話もあるという(こちら
紅葉したら、さぞ見事なことだろう
その左手にある鐘楼堂には、重量3.75tにも及ぶ東日本最大の鐘楼

11月からは紅葉ライトアップも予定され、名刹とミーハーが融合した、新しいお寺のようだ

フジバカマ(藤袴、コメバナ、蘭、Eupatorium japonicum、キク科ヒヨドリバナ属の多年草)秋の七草の1つ