今回家族はJALで日本へ帰国したが、私はユナイテッドで飛びます。
家族のマイレージのメインバンクはアメリカン航空(AA)なので、AAにマイレージの付くJALにしました。
私は一通り全てのアカウントを持っており、どれもそこそこ貯まってはいるのですが、貯まるとすぐにバケーションで使ってしまうので、どれも中途半端です。
普通個別のメンバーになる必要の無い、アラスカ航空、アメリカウエスト(現USエアウェイズ)、さらには合体してしまったデルタとノースウエストを個別に持ち、系列のKLMまで持っていると言う効率の悪さ。
しかしそれぞれにアメリカ生活でのいきさつと想い出があるのです。
アメリカ生活のスタートはダラスでした。
テキサスのダラス・フォートウォース空港と言えば、アメリカン航空のハブです。
赴任研修のためのNYまでのJALも、AAのマイレージとしてアメリカ生活がスタートしました。
そしてすぐにオースチンへの仕事通いが始まりました。
ダラス-オースチン間は実際の飛行時間は30分ちょっと。離発着を入れて1時間のフライトです。
ところが夏場の両空港は、雷によるスケジュール遅れが頻繁で、どちらかが雷雨になれば天候が回復するまで飛行機は飛べません。
と思っていたらそれはAAの話で、同じ区間を飛んでいたデルタ便は、雷雨の中へ突き進んでゆきます。
この時点でデルタのメンバーになりました。
カリフォルニアに引っ越したときは、オレゴンのポートランドとユージンが仕事場でした。
当然のようにアラスカ航空のメンバーになり、その後アイダホのボイジーも仕事場に加わり、一時はプラチナム会員にまでなったことがあります。
面白いものでマイレージが貯まりランクが上がると、その後の出張がぱたりと無くなります。
そしてなんとなく富豪気分のするプラチナムのステータスを剥奪され、一気に貧民に落とされます。
次に訪れたのは大陸をまたいだ東海岸の客先で、火の粉があがりました。
ヴァージニア州のリッチモンドへはダラス経由のAAで行けるのですが、もうひとつはワシントンDC空港そばのため、ユナイテッド航空が便利でした。
家のあるカリフォルニア州のベイエリアには、サンフランシスコ空港、オークランド空港、サンノゼ空港の3つがあり、ユナイテッド便はこの3空港からワシントンDCに直行することが可能でした。
その後火の手は鎮火せず、ヴァージニア州へのお引越しです。
今度はワシントンからカリフォルニアへの出張です。年に数回の出張でしたので、回数はゆきませんが飛行距離が長いため、随分と貯金させてもらいました。
2001年のセプテンバー・イレブンにペンタゴンのすぐそばに生活していたことは、翌年に発生した無差別連続射撃事件とともに、家族全員の心の中から消えることは無いでしょう。
再度カリフォルニアに戻ってきてからと言うもの、どうしたものか出張の連続でした。
ヴァージニアに降って湧いた、「絶対に失敗の許されない」プロジェクトでは、2週間をヴァージニアで過ごし金曜の夜中にカリフォルニアに戻り、翌月曜の朝一、下手をすると日曜の夜行便でヴァージニアへ戻ると言う生活を10ヶ月ほど続け、「ほぼ成功」の兆しが見えた時点で引き続きオースチンの、「競合の牙城へ殴りこみ」プロジェクト、さらに続けてまったく予想だにしなかった、「アジャ・アジャ・ファイティング」プロジェクトが同じくオースチンにて勃発。
都合3年間に及ぶ家なき子人生であった。
その間仕事を抜けられない父をよそに、3時間の時差と戦い骨身を削ってせっせと貯めたマイレージで、ヨーロッパ旅行を楽しむ家族。
挙句に年間200泊の滞在で貯めたホテルのポイントを、たったの2泊のパリ滞在で使い果たされてしまった。
ヴァージニア往復のユナイテッドは、機内上映の映画が2ヶ月ごとに変わっていた。こちらは2ヶ月もあれば4回も5回も往復する。結局ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーのMr. and Mrs. Smithは、機内で4回見た。
そして出張地獄の3年間の終わり近くに、日本からの機内(そういえば日本へも年に2回飛んでいたっけ)で見たCLICK(日本名:もしも昨日が選べたら)で、それまでの自分に涙がボロボロ。いまだに家族の生活や子供たちの進学に関することが、一切記憶に戻らない自分である。
話が随分高飛びしたが、そんないきさつでいろいろな航空会社のマイレージメンバーになってしまい、今回の帰国のユナイテッドのマイルを使い、クリスマスの帰米チケットを確保したと言うわけです。
会社がなんと言おうと、どんなハチャメチャプロジェクトが来ようと、12月は中旬からお休みです。
これだけは絶対譲りませんからね。
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