10/02/2024

2024/10月の散歩(東国三社)

2024/10/02 (Wed)
房総旅行を企画した際、鹿島・香取両神宮を素通りするわけにはいかず、これで1泊余計にかかると思っていた
ならばそこを、日帰りツアーで周ってこようと言うことになり、まずは茨城県鹿嶋市宮中の鹿島神宮へ
大きな石碑と大鳥居(二の鳥居)が目に付くが、笠間市産の御影石を用いた石鳥居が、2011年の東日本大地震により根元から倒壊し、神宮境内から杉の巨木4本を伐り出して再建された、高さ10.2m幅14.6m、2本の円柱の上に丸太状の笠木を載せ、貫のみを角形として柱の外に突き出させる等の特徴があり、この形式は「鹿島鳥居」と称されるらしい
柱の土台部分にあたる亀腹石(かめばらいし)には、倒壊した石鳥居の石が用いられた
全国にある鹿島神社の総本社で、鹿島神宮の由緒『鹿島宮社例伝記』(鎌倉時代)や古文書では、日本国の初代天皇である神武天皇元年(皇紀元年、紀元前660年)に宮柱を建て創建したという
祭神は、武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ、建御雷神)で、鹿島神(かしまのかみ)とも呼ばれ、雷神、かつ剣の神とされる
要石(かなめいし)に住まう、地震を引き起こす大鯰(おおなまず)を御する存在とも
大鳥居の次の楼門は、国指定の重文だが、残念ながらお色直しの最中
12年に1度の午年に行われる御船祭(みふねさい・みふねまつり)を2年後に控え、修繕が行われているようだ
御船祭は第15代応神天皇の時代(362~430年)に祭典化されたと伝えられ、9月1日午前10時に、天皇(古くは朝廷)から遣わされる勅使の参向を仰ぎ、例大祭を執行し、午後4時半から青竹に提灯をつけた大提灯が街中を練り歩き、午後8時から神幸祭が斎行され、ご分霊を載せた神輿が町内を渡御し、行宮(あんぐう)に着輿
2日早朝、鹿島神宮行宮を進発した神輿が、陸路北浦湖岸の大船津に運ばれ、大船津で龍頭の飾り等を施した御座船(ござぶね)に載せられ、多くの供奉船を従えて水上渡御し、香取市加藤洲で香取神宮の御迎祭を受けた後、再び同じ水路と陸路を還幸して行宮に戻る
3日午前10時に行宮祭を奉仕し、再び町内を渡御して、午後3時に本殿へと還幸して終了となる、3日間にわたる大祭典のようだ

修繕中の楼門を抜けるとすぐ右手に、北を向いた拝殿と本殿が威厳あるたたずまいで現れる
鹿島の地は、日本の東の日の出ずる国の果てで、香取海(現在の霞ケ浦、印旛沼、手賀沼などが海とつながっていた)という内海に面した、蝦夷との境界にあたる、軍事上も重要な場所で、蝦夷(東北地方)の方向に、睨みをきかせるという意味もあったのかもしれない
本殿・石の間・幣殿・拝殿・仮殿は、いずれも江戸時代初期の元和5年(1619)、江戸幕府第2代徳川秀忠の命による造営

三間社流造、向拝一間で檜皮葺。漆塗りで柱頭・組物等に極彩色が施されている本殿は、当然国の重文
本殿の背後には、樹高43m根回り12mで樹齢約1,000年といわれる杉のご神木が立っており、そのさらに後に鏡石と呼ばれる直径80cmほどの石があり、神宮創祀の地とも伝えられているが、どちらへもアクセスはできず
本殿の向かい側に、やはり国の重文の仮殿(かりどの、または権殿)があり、造営当初は拝殿の左前方にあって西面していたというが、再三位置を変えた末、昭和26年(1951)に現在の位置に移動したそうだ
ここが御船祭の時の行宮なのかは、わからなかった

さらに北には、大きな社務所・祈祷殿があり、御朱印はここで受けられる

社務所前のクサギ
きれいな青い実をつけている
そもそも紀元前600年以前に、初代天皇勅命で武甕槌神を祀る神宮を建てた理由だが、神武東征(高千穂から橿原)の際、熊野で熊が出現したため(古事記)、あるいは毒気(日本書紀)によって、神武も全軍も気を失うか力が萎え窮地に立たされた際、武甕槌神がかつて出雲の国譲りの際に使った「韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ、布都御魂、刃長2.24mの鹿島神宮唯一の国宝)」を、天界の地面に突き刺し熊野へ落とし、神武を救ったことへの感謝とのこと
これより奥参道へ入る

鹿園の隣にある「さざれ石」

国歌「君が代」の歌詞は、10世紀初頭の『古今和歌集』の「読人知らず」の和歌を初出とし、世界の国歌の中で、作詞者が最も古いといわれている
音階は、明治13年(1880)に宮内省雅楽課が旋律を改め、それをドイツ人の音楽教師フランツ・エッケルトが西洋和声により編曲したものだという
日章旗の石碑によると、国旗として認定されたのは、1999年に公布・施行された通称:国旗・国歌法だという
つまりそれ以前の日本において、国旗掲揚、国歌斉唱というものが合法的ではなかったということになる
鹿園の写真はないが、神護景雲2年(768)藤原氏の氏社として奈良の春日社(現・春日大社)を創建する際、鹿島神の御分霊を白い神鹿の背に乗せ、多くの鹿を引き連れて出発、1年かけて奈良まで行ったと伝えられており、奈良の鹿も鹿島神宮の発祥とされている
カシマは『常陸国風土記』では「香島」と記載されていたが、「鹿島」になったのも神鹿の関係かもしれない
一般に旅立ちのことを「鹿島立ち」というが、語源はここにあるらしい
奥参道をまっすぐに進むと、奥宮(おくのみや)がある
元和5年(1619)の本殿造営以前は、現在の奥宮の社殿が本殿として使用されていたので、現在の奥宮社殿は、慶長10年(1605)に徳川家康により、関ヶ原戦勝時の御礼として造営された、当時の本殿だ
総白木作りの簡素な三間社流造で、一間の向拝を付する、境内の社殿で最古の、国の重文

奥宮から右に行くと大鯰の碑があり、地震を引き起こす大鯰を御する武甕槌神が、掘られているのであろう
さらに先に、古来「御座石(みまいし)」や「山の宮」ともいう、直径30cm高さ7cmほどの要石(かなめいし)は、大鯰の頭と尾を抑える杭であるといい、見た目は小さいが地中部分は大きく決して抜くことはできないと言い伝えられている
『水戸黄門仁徳録』によれば、水戸藩主徳川光圀が7日7晩要石の周りを掘らせたが、穴は翌朝には元に戻ってしまい根元には届かなかったばかりか、けが人が続出し断念したという
この場所は中央構造線の真上であるという
伊勢神宮、諏訪大社などの立地と中央構造線を重ねた話をよく聞くが、結果論はともかく、地震除けのために選ばれた場所だというのは、どうなんだろう
要石から奥宮に戻り、反対側の御手洗池(みたらしいけ)へ

古くは西の一の鳥居がある大船津から舟でこの地まで進み、潔斎をしてから神宮に参拝したと考えられており、「御手洗」の池名もそれに由来するとされている
池には湧水が流れ込み、水深は1メートルほどであるが非常に澄んでいる





2011年に堺雅人主演のテレビドラマ『塚原卜伝』(つかはらぼくでん)のロケに使われたという
父祖伝来の鹿島神流(鹿島古流・鹿島中古流)に加え、養父祖伝来の天真正伝香取神道流を修めて、鹿島新當流を開いた塚原卜伝は、地元の英雄の扱いだ

池の脇にある売店の三色だんごがおいしそう
わらび餅もいいなあ
どちらもかなわず、焼だんご(一色)と、冷やし甘酒で休憩
広く整備された、平坦な奥参道を引き返す


東神門から楼門まで白馬で駆け抜ける神事、白馬祭(おうめさい)が1月7日に行われるという

鹿島神宮を出て、正面の大町通りを散策
親子鹿像
寂しい張り紙
鹿島神宮の境外社ではなく、独立した靇(りゅう、口3つは無い)神社は、鹿島神宮の水を守り火を防ぐ神で、かつては御手洗池に二社、楼門の前後に四社、参道の両側に二社の八龍神があったと伝えられていますが、参道の二社が合祀され靇神社一社となり、明治以降は大町区の鎮守の社となっているそうだが、靇(おかみ)じゃないのね
靇神社の向かいにある「ばってら 福」で、軽い昼食



著名な鹿島神宮、香取神宮詣でを計画した際、前の2神宮と二等辺三角形を作る頂点(神栖市息栖)にある息栖(いきす)神社をお忘れなく
息栖神社の一の鳥居下には、忍潮井(おしおい)と呼ばれる2つの井戸があり、伊勢(三重)の明星井(あけぼのい)、山城(京都)の直井と、神栖市の忍潮井(おしおい)で「日本三霊泉」だという
井戸はそれぞれ「男瓶」「女瓶」という名の2つの土器から水が湧き出ているが、現在の井戸は昭和48年(1973)の河川改修のため、移転しているという
忍潮井の上に建つ一の鳥居は、鹿島神宮の南の一の鳥居でもあるという
香取海に浮かぶ沖洲に祀られていたことに由来する、沖洲(おきす)が転訛して、息栖(いきす)となった、鹿島神宮の境外摂社のひとつだ
一の鳥居から二の鳥居へ向かう
江戸時代には、利根川の河川改修で水運が発達したため遊覧船も行き来し、庶民の間で伊勢神宮参拝後に、東国三社を巡拝する慣習があったという





主祭神の岐神(くなど、くなと、久那戸、気吹戸)とは、牛馬守護の神、豊穣の神としてはもとより、禊、魔除け、厄除け、道中安全の神として信仰されており、鹿島神・香取神による葦原中国平定において、東国への先導にあたった神