2021/3/17
道の駅からサイクリングPart-5は、市貝町の道の駅さしばからの2回目
今回は北東部の梅の里へ
道の駅を出てすぐに、長い長い上り坂に加え、向かい風に苦戦しながらも観音山に到着
道の駅からサイクリングPart-5は、市貝町の道の駅さしばからの2回目
今回は北東部の梅の里へ
道の駅を出てすぐに、長い長い上り坂に加え、向かい風に苦戦しながらも観音山に到着
なんと長閑な田園風景でしょう
我々の自転車が見えました
ヤマツバキとヒヨドリですかね
くちばしが黄色く見えますが、おそらく椿の花粉ではないかとのご意見をいただきました
梅の里の観音山は、1100年頃村上城があった場所
観音山に登頂しました
本丸跡地には権現様が祀られています
そして本丸全体が、梅の里となっていました
少し下った大手口脇には、永徳寺の立派な観音堂
下野三十三観音第十二番札所 大慈山 永徳寺
梅の里の観音山は、1100年頃村上城があった場所
観音山に登頂しました
本丸跡地には権現様が祀られています
そして本丸全体が、梅の里となっていました
少し下った大手口脇には、永徳寺の立派な観音堂
下野三十三観音第十二番札所 大慈山 永徳寺
弘仁六年(815年)徳一上人の開山と伝わる。
総ケヤキ造りの千手観音堂は、慶長十年(1605年)に再建されたもので、目の当たりにすると歴史的な重みも加わり迫力が違う。奉納された額からも厚い信仰を集めていたことがわかる。
お前立観音は鎌倉時代の作という。
平安中期の作と伝わる本尊は県の有形文化財。軒下の数々の美術品は、多くがかすんでしまっていました
上から見る梅の里は、美しいものです
ヒメスミレでしょうか
春を告げるルリタテハ(瑠璃立羽、学名 Kaniska canace)のようです
駐車場には鯉のぼりが沢山
自転車でさらに北上し一山超えて、武者絵資料館まで行ってきました
武者絵とは、端午の節句に男の子の無事成長と立身出世を願って立てられる、豪壮な武者絵のぼりで、栃木に住んで初めて知ったものです
資料館の脇には製作所があり、覗けるようになっていました
訪れた時、資料館は無人で電気も消されていたが、ドアは空いたので勝手に見学させていただいた
江戸時代ののぼり絵四本
この資料館は、武者絵制作を明治22年から始めた大畑家が、失われつつある日本の伝統手工芸を後世に伝えるために、300年前の民家を改造して作られたそう
中央の人は、鍾馗(しょうき)といい、玄宗皇帝が病にかかり、高熱と悪夢にうなされていた折、終南山よりかけつけた豪勇無双の大男が豪剣を振って病魔を払いのけたため、皇帝の病は一朝にして回復しいたく喜んで、夢に見た鍾馗を画匠呉道子に描かせて邪鬼払い神として端午の節句の祝品として描かれる様になったとのこと
勝手に照明を点けさせてもらったものの、薄暗い館内は雰囲気があります
とは言えフラッシュを使わせていただきました
武者絵屏風
左が二代目耕雲作の鍾馗(しょうき)
家紋の型紙
武者絵のぼりには家紋が二つ
この資料館は、武者絵制作を明治22年から始めた大畑家が、失われつつある日本の伝統手工芸を後世に伝えるために、300年前の民家を改造して作られたそう
中央の人は、鍾馗(しょうき)といい、玄宗皇帝が病にかかり、高熱と悪夢にうなされていた折、終南山よりかけつけた豪勇無双の大男が豪剣を振って病魔を払いのけたため、皇帝の病は一朝にして回復しいたく喜んで、夢に見た鍾馗を画匠呉道子に描かせて邪鬼払い神として端午の節句の祝品として描かれる様になったとのこと
勝手に照明を点けさせてもらったものの、薄暗い館内は雰囲気があります
とは言えフラッシュを使わせていただきました
武者絵屏風
左が二代目耕雲作の鍾馗(しょうき)
家紋の型紙
武者絵のぼりには家紋が二つ
上は男の子が生まれた家の紋
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