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二日続けて、安いお昼にありつきました
小山城(祇園城)跡へ来た
久安4(1148)年に小山政光によって築かれたとの伝承がある小山城は、鷲城、中久喜城とともに、鎌倉時代に下野国守護を務めた小山氏の主要な居城であった
当時の下野には、宇都宮氏・那須氏・長沼氏など小山氏に台頭する勢力が存在し、統治は不安定であった
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小山城(祇園城)跡へ来た
久安4(1148)年に小山政光によって築かれたとの伝承がある小山城は、鷲城、中久喜城とともに、鎌倉時代に下野国守護を務めた小山氏の主要な居城であった
当時の下野には、宇都宮氏・那須氏・長沼氏など小山氏に台頭する勢力が存在し、統治は不安定であった
宇都宮氏綱は、国領に関する件で鎌倉公方足利基氏の怒りを買い、基氏は当時の下野守護所があった小山に陣を構えて氏綱を降伏させた
しかし足利氏は、宇都宮氏のみが弱体化したことによって小山氏の勢力が伸びることを望まず、今度は宇都宮氏を支援して小山氏を牽制する路線を取った
本来一人であるはずの下野の国守である「下野守」に、小山義政と宇都宮基綱が同時に、任じられていた
小山氏としては納得がいかず、宇都宮勢に殴りかかり宇都宮基綱を討ち取ったのが、康暦元(1379)年の5月のこと
私戦を禁じていた鎌倉府にしてみれば、小山氏を反逆罪で討伐する良い機会となり、翌康暦2(1380)年から応永4(1397)年の17年間にわたる戦により、足利氏満が小山氏を滅ぼすこととなった
永徳元(1381)年4月、小山軍の拠点であった鷲城の陥落が確実となり、義政と嫡子若犬丸は鷲城を開城して祇園城に移り、降伏を表明し、証拠として義政は出家した
と見せかけ、永徳2(1382)年、小山郊外の粕尾に城塞(寺窪城・櫃沢城2城)を築いて抵抗を図り、祇園城は小山氏の手により自ら焼き捨てられたというこの裏切りに激怒した足利氏満は、3度目の討伐軍を派遣し、鎌倉府側の猛攻で寺窪城が陥落、脱出した義政だが追手に発見され、粕尾の山中で自害(享年33)、妻の芳姫も籠城中もしくは落城後に殺害されたという。だが、若犬丸のみは発見されず、そのまま行方不明となった
しばらく後の至徳3(1386)年になり、行方をくらましていた小山若犬丸が小山氏旧臣と共に突如小山で決起して祇園城を占領したものの、再度猛攻撃を受け陥落
さらに10年後の応永3(1396)年に、若犬丸は再び祇園城を占領する
さらに10年後の応永3(1396)年に、若犬丸は再び祇園城を占領する