11/20/2023

2023/11月の散歩(佐野市作原町)

2023/11/20
日本列島中心の地に来た
定義としては、北海道最北端(宗谷岬、北緯45度31分22秒、東経141度56分12秒)と九州最南端(佐多岬、北緯30度59分42秒、東経130度39分42秒)からそれぞれ同距離の太平洋側の地点(茨城県神栖町)、日本海側の地点(新潟県上越市)を割り出し、2点を結んだ中間点を日本列島の中心としたという
割り出された中心点は東経139度30分21秒、北緯36度30分54秒
この場所は佐野市作原(さくはら)町の山林内であったため、南に約4 km離れた蓬山(よもぎやま)ログビレッジに碑を建てたという
碑の右脇には、中心点近くにあった面白石(おもっちろいし)と呼ばれる重さ約7トンの大きな砂岩も置かれている
蓬山ログビレッジの情報館は、まともなパンフレットも地図もなく、男性一人がいたものの、ろくな周辺案内もせず、ひでえところだった
壁に貼られた地図だけが、唯一の情報
さらに北に進み、蓬莱山(ほうらいさん)駐車場へ
大戸川(おおとがわ)は、渡良瀬川の支流の旗川の上流で、「とちぎの道と川100選」
約1200年前、日光を開山した勝道上人によって開かれ、一大霊場として栄えた蓬莱山は、佐野市の紅葉名所です
地蔵堂は、勝道上人の勧請する堂として伝えられ、本尊子育延命地蔵尊を安置する
西蓬莱山と東蓬莱山があり、頂上には祠があるという
「地蔵堂の紅葉」ともいわれ、もみじの古木が何本もある


蓬莱山神社に拝殿はなく、本殿(神殿)が囲われている
天慶3年(940)藤原秀郷が蓬莱城(忍山城)を築城した際に、守護として安芸厳島より勧請し、天慶5年(942)創建と伝わる
蓬莱神社という記載もあるが、本殿には蓬莱山神社と書かれた札がある
祭神は市杵嶋姫命で、宗像大社の総社、辺津宮(へつみや)にも祀られていた

観音堂への石段は、あまりに崩壊が激しく、ここは使わずに左手のスロープを登る
当地は日本三蓬莱の一として知られ、その山水の美は古来これを蓬莱の四十八景と称し文人墨客の愛賞して措かざるところである
とのことだが、「三蓬莱」とは、富士・熱田・熊野のこととあり、下野は見当たらないし、「蓬莱の四十八景」は、検索でヒットしない
さびれてしまったものは、かつての輝きを失ってしまうということか
観音堂は、紫式部の守本尊にして霊験威霊顕著なることで知られる、千手観世音菩薩を祀る
観音堂裏手の崖
思うに地蔵堂と蓬莱山神社は独立した別物で、勝道上人が地蔵堂を建て、湯の湖畔から延命地蔵尊を迎えた西暦800年ごろから時を経た940年頃、蓬莱城(忍山城)を築城した藤原秀郷が、市杵嶋姫命を勧請して神社を作ったのだが、どちらも廃れてしまい今に至るのだろう
駐車場の正面に、四海波(しかいなみ)の滝が気持ちよく落ちています

が、滝の上部に黒いホースが見えてしまい、人口の滝のようです

イイギリ(飯桐、椅、ナンテンギリ(南天桐)、Idesia polycarpa、ヤナギ科(イイギリ科)の落葉高木)の実
来た道を戻ります

今日は大戸川をさらに上り、三滝を目指して、行けるところまで行ってみる予定でしたが、ここから先に進むことができず
麓の情報館では、「(三滝まで)全く行けないよ」と冷たく言い放たれ、取り付く島がない
その理由を聞く気すら起きないほど腹を立てたが、情報館の看板を出していていいのか?
「上人の水」「蓬莱水」「宝生水」と呼ばれる3ヵ所の湧水地があり、地元の人が水汲みに訪れるという
ここは「上人の水」で、「蓬莱水」というのが神社上のトンネルを抜けたところにあり、「宝生水」はさらにかなり先になるのだが、昔の人は水汲みにも大変な思いだったことだろう
大戸川を下り、佐野市作原町の宇都宮神社
枝垂桜が見事です
屋根の上には金ぴかの狛犬と鯱鉾
主祭神は大己貴命、三穂津姫命で、建武(南朝)2年(1335)宇都宮の二荒山神社より勧請して創建,獅子臼大明神と称した
ついで宇都宮神社,安永2年(1773)には宇都宮慈眼大明神と称した村社
境内社は左から疱瘡神、稲荷神社、天照皇太神、八坂神社、熊野神社
本殿には立派な彫り物が
後ろ側の絵は、落ちて壊れてしまっていました




ヒサカキ(姫榊、柃、ホソバヒサカキ、Eurya japonica var. japonica、モッコク科ヒサカキ属の常緑小高木)の実
関東地方以北において、サカキの代用としているそうで、後出の白山神社の拝殿脇に、榊が並べて置かれていたのは、この木の枝か
どこまでものどかな、栃木南部の山間風景だ
マユミの実

帰路を進み、都賀町大柿の白山(はくさん)神社
神護景雲年間(767~9)加賀国の白山比咩神社より勧請し、今の地に遷宮されたと伝えらる古社だ
二の鳥居
永仁5年(1197)に再建され、文明元年(1469)に修繕し、その後江戸時代の寛文年間(1661~1672)に拝殿を改築したが、平成20年(2008)4月、不審火により灰燼に帰してしまい、氏子らの努力により復活したとある
祭神は伊邪那伎命、伊邪那美命、配神は菊理比賣命、垣安比賣命
ヒサカキ?
本殿は見ることができず



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