3/24/2024

2024/3月の散歩(筑西)

2024/3/24 (Sun)
昨日の里山Monitoringでの、シュンラン
今日は買い物があり、茨城県桜川市にちょこっとだけ入り、帰りに筑西市の内外大神宮(ないげだいじんぐう)
山道脇の大木の木こぶは、「根頭がんしゅ病」と考えられるそうです
継体天皇27年(継体天皇の在位期間は25年間しかない)伊勢神領として当地を選定し、創建。大同元年(806)社殿造営と伝わる
明治35年(1902)の台風により大破し、旧材を使用し修理を行ったが、老朽化が著しくなったため、昭和61年(1986)に再建された拝殿
拝殿右手に、天正2年(1574)建立の国の重要文化財(建造物)である御遷殿(本殿の建替えや修復時などに御祭神を一時移しするために使用された仮宮)がある
一間社流造茅葺で、向拝柱および方柱の大面取、海老虹梁の袖切などの細部手法や全体の形式は、室町時代の古様をとどめているという
拝殿の裏手には、少し離れた一段高い場所に、本殿が二つ並んでいる
右が天照大御神を祀る内宮本殿、左が豊受大神を祀る外宮本殿で、両本殿ともに桁行三間、梁間二間の本格的な三間社神明造で、元々は茅葺であったが、昭和50年代に保護のため銅板葺となった、国指定重要文化財(建造物)
大同元年(806)頃に創建され、応永年間(1400頃)兵火により焼失、延宝7年(1679)に地元の大工によって建立された、神明造本殿を二棟を並立させる社殿形式として我が国で現存する最古のものだという
本殿裏手に並ぶ、沢山の祠。28社ある

この神楽殿で年2回行われる小栗内外大神宮太々神楽は、県の無形民俗文化財

内外大神宮をあとにし、西側にある小栗城を訪ねる
常陸大掾(だいじょう)に任じられた平繁盛(たいらのしげもり)を祖とする常陸小栗重家が、1155年頃に築いた山城
常陸小栗氏は鎌倉府(鎌倉公方)の管轄国内の常陸真壁郡小栗御厨の領主だが、室町幕府の公方(征夷大将軍)と直接主従関係を結ぶ京都扶持衆となり、たびたび反鎌倉公方(足利持氏)活動を行っていた一族であったという
応永29年(1422年)から応永30年(1423年)にわたり、宇都宮持綱・桃井宣義・真壁秀幹らと共謀して、下総結城城を奪うなどの反乱(小栗満重の乱)の舞台となり、小栗城主小栗満重ら京都扶持衆が反乱を起こし鎌倉府の足利持氏と激戦を繰り広げたが、鎌倉府軍の大軍に責められ、小栗城で自刃したため小栗氏は没落した
小栗満重の乱後、小栗城及び小栗御厨は鎌倉府領となったが、足利持氏没後の永享12年(1440)に起こった、室町幕府と結城氏ら関東の諸豪族との間の戦い(結城合戦)で、小栗満重の子(または弟)小栗助重が室町軍として戦功をあげたため、旧領に復帰することを許され、小栗氏の家督を継承した
しかし、享徳4年(1455)足利成氏からの攻撃を受け、小栗氏は滅亡した(享徳の乱)
北と西は小貝川から切り立った崖で守られ、関東平野を一望できる眺望もよい本丸
内外大神宮のある南東は、深い堀が掘られており、かなり守りの強い山城と思える
小栗氏滅亡後も小栗城は廃城とならずに使用され続け、小田城主の小田氏および結城家臣で下館城・久下田城主の水谷氏に対する、宇都宮氏の防衛拠点として使用されていたという
夏場は竹や草や虫たちに阻まれ、訪問するのは困難だと思われる場所に行けて、ラッキー

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