おもて那須手形期限が迫り、あと1か所の無料温泉をいただくべく、大田原方面へ
途中、大田原市藤沢のゴルフクラブ脇にある「琵琶池」へ、北へ旅立つ直前のコハクチョウに逢う
永禄5年(1562)藤原義基が夢告により、杉林の中の滝壷から神霊の石像を発見し、お堂に祀ったことに始る
ケチな人間だと気づくと、一斉にそっぽを向く
大田原市佐久山の浄土真宗本願寺派 川越山 無量壽院 正淨寺
大田原市佐久山の浄土真宗本願寺派 川越山 無量壽院 正淨寺
健保2年(1214)宗祖親鸞聖人が、東北御巡錫の折、佐久山宿箒川の川端の孫八宅に一宿した際に、聖人が孫八に川越の阿弥陀如来の尊像を授与した
その尊像を安置するため、孫八が御堂を建立したのが正浄寺の起源という
もう少し詳しく言うと、那珂川水系箒川の増水で川を渡れなかった聖人は、孫八宅にお泊まりになったが、ちょうど幼子を亡くしたばかりだった孫八は、その夜の説法に感じ入り深く帰依した
やがて川の水が引き、親鸞聖人が対岸に渡り切ったその時に、感極まった孫八は、大きく声をかけ手を振った
すると聖人は孫八に布を持ってくるよういいつけ、孫八が持ってきた布に向かって、対岸から南無阿弥陀仏と空中にしたためた
すると孫八の持つ布に、川を越えて阿弥陀如来の絵像が写ったという
寛政10年(1798)佐久山領主・福原内匠資明が寺領を再興し仏舎を再建し、住職には西本願寺の役僧だった西山源慶が就き、寺号を正浄寺とした
明治2年(1869)から10年がかりで再建された本堂の彫刻は、宮大工・阿久津仁吉が3年かけて刻んだという色鮮やかな牡丹や龍が見られる
大田原市滝沢の滝沢神社永禄5年(1562)藤原義基が夢告により、杉林の中の滝壷から神霊の石像を発見し、お堂に祀ったことに始る
周辺には、多くの石像が並ぶ
当時は倭武神社だったが、延宝5年(1677)境内に清滝寺を建立。元禄8年(1695)より5年の歳月をかけ、壮麗な神殿を造営
大正2年(1913)日枝神社,三霊神社を合併し「滝澤神社」と改称
元禄12年(1699)10月28日と記された棟札がある入母屋造の本殿は、市指定有形文化財(建造物)で、屋根以外は修復されず元のままだという
本殿に比べ、小ぶりな拝殿
日本武尊、大山祇神、罔象女命(みつはのめのかみ、代表的な水の神)を祀る
滝沢中坪山大山の箒川に面した断崖に鎮座されていた大黒天(大巳貴命、大国主命)が、平成10年(1998)ここに遷座された
当時は倭武神社だったが、延宝5年(1677)境内に清滝寺を建立。元禄8年(1695)より5年の歳月をかけ、壮麗な神殿を造営
大正2年(1913)日枝神社,三霊神社を合併し「滝澤神社」と改称
元禄12年(1699)10月28日と記された棟札がある入母屋造の本殿は、市指定有形文化財(建造物)で、屋根以外は修復されず元のままだという
本殿に比べ、小ぶりな拝殿
日本武尊、大山祇神、罔象女命(みつはのめのかみ、代表的な水の神)を祀る
滝沢中坪山大山の箒川に面した断崖に鎮座されていた大黒天(大巳貴命、大国主命)が、平成10年(1998)ここに遷座された
アズマイチゲの蕾がたくさん
紅白の梅が香り立っている
2020/2月に訪れた大田原市ふれあいの丘で、初めてザゼンソウを見たが、今年も同じ場所で、最後の一輪と思われるザゼンソウに逢えた
今年2月の那珂川町なす風土記の丘資料館そばの記事では、ザゼンソウの芽と書いてしまったが、苞が消えた後に出てくる葉っぱだったようだ
大田原市福原の曹洞宗 須峯山 瑠璃光院 玄性寺
紅白の梅が香り立っている
2020/2月に訪れた大田原市ふれあいの丘で、初めてザゼンソウを見たが、今年も同じ場所で、最後の一輪と思われるザゼンソウに逢えた
今年2月の那珂川町なす風土記の丘資料館そばの記事では、ザゼンソウの芽と書いてしまったが、苞が消えた後に出てくる葉っぱだったようだ
大田原市福原の曹洞宗 須峯山 瑠璃光院 玄性寺
那須三代資之(すけゆき)が、京都東山の即成院に埋葬された弟の那須与一(宗隆、のち資隆、1190頃没)の分骨を受けて建立した功照院が始まりで、天正18年(1590)後に那須藩主となった那須二十二代資景(すけかげ)が、曹洞宗の鉄尊を招き、玄性寺として再建した、那須氏の菩提寺
治承(じしょう)4年(1180)、那須十郎為隆(ためたか)、与一宗隆(むねたか)の兄弟二人が源義経(よしつね)の家来となって平家追討の旅に発つ時に、福原の領民がその出陣を祝って激励の力餅を大勢で面白く、代わる代わるついて差し上げたのが始まりといい、現在は与一弓道大会にあわせて、那須家の供養に餅つき唄を奉納するという、市指定無形民俗文化財
玄性寺の正面にある、稲積稲荷(いなづみいなり)神社
永万元年(1165)下野の豪族須藤氏が那須に移動した際、甲斐の国から那須烏山市下境に稲積神社に勧請し、須藤六代宗資が烏山市の神田城から烏山の下境稲積城に移った際、城の守護として城内に勧請
玄性寺の正面にある、稲積稲荷(いなづみいなり)神社
永万元年(1165)下野の豪族須藤氏が那須に移動した際、甲斐の国から那須烏山市下境に稲積神社に勧請し、須藤六代宗資が烏山市の神田城から烏山の下境稲積城に移った際、城の守護として城内に勧請
割引入浴も入れると、なんとお安い入浴料だったことか
今後も再開されることを、切に望んでいる
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