Canonさんの新工場の基礎工事が、始まったようです
昼食で立ち寄った高根沢町元気あっぷ村の、レストラン花紋(Kamon)からの日光連山海鮮スンドブは、韓丼よりも本格具材がたっぷり
名物の高根沢ちゃんぽんは、小松菜ペースト入りの、緑のスープ
レストランからの眺めは素晴らしいのだが、もやし、コーン、枝豆が冷たいですけど
那珂川町なす風土記の丘資料館
駐車場わきに並ぶ平石は、水田化で消失してしまった全長50mの前方後円墳、梅曽大塚(うめぞおおつか)古墳の石室天井石
一帯には那須官衙遺跡が広がる
資料館前のマンサクが、咲き誇っていた
縄文時代に興味が出てきたのだが、紀元前の1万年というあまりの長期間を、大雑把にひっくるめた呼び方だ
資料館とお気に入りのそば処「ふれあいの舎」の間の湿地に、ザゼンソウの芽が出てきているようだ
父は下野守藤原道家、母は河内守源頼信の娘という那須氏の祖、六男藤原資家(すけいえ)によって天治2年(1125)頃に築かれ、以後須藤資清に至るまで4代にわたり那須氏(須藤氏)の居城として使われたという那須神田城跡
那須氏が、稲積城・高館城に移った後廃城となったようだが、ここより南、那須烏山市下境の稲積城(いなづみ)も、北の高館城も、築城時期はほぼ変わらないようだ
方形単郭式の居城として典型的な形態を遺存しており、土塁や空堀などの遺構が、良好な形で現存している、国の史跡指定文化財
城の北西角にある神田穂喜与稲荷神社
首藤権守貞信(ただひら)が、人民をとり喰い六畜をつかみさく八溝山の賊徒岩嶽丸を成敗した際、神田明神より勧請して氏神として創建したが、永承年間(1046~1053)野火で焼失
弘化4年(1847)三輪村の民が神寄せを行ったところ城狐が現れ、城内に祀れとの託宣があり、翌嘉永元年(1848)城塁北側中央に小祠を建立した
大正5年(1916)に現在地に拝殿を新築,昭和63年(1988)に改築
大田原市寺宿の臨済宗 妙心寺派 正覚山 実相院 光嚴寺(こうごんじ)
那須余一宗隆が、高館城(大田原市大輪)の南の長谷田(現在の五峰の湯付近)に創建し、那須資村(すけむら)が康元2年(1257)現在地に再建し鎌倉建長寺の可翁禅師を招き中興開山た、那須氏の菩提寺
伽藍の周囲には土塁を築き、空壕を掘って、戦乱に際しては城砦の役目をも果していたという
説明が無いが、上が那須三十三所観音第3札所の聖観音を祀る観音堂で、下が本尊の釈迦如来を祀る本堂だろう
枝垂桜が有名な寺だ
光厳寺の鐘楼の鐘は、応長元年(1311)に鋳造された後、寛永16年(1639)、享保8年(1723)の2度にわたって改鋳された銘が、三重になっていることから三鋳銘鐘(さんちゅうめいしょう)といわれ、大田原市指定有形文化財(工芸品)となっている
戦争時の供出を免れ、今日にいたる
最後は黒羽温泉 五峰の湯で「おもて那須」入浴
pH9.9のアルカリ性単純泉は、肌のつるつる感がとても強いが、源泉温度が34.1℃なので加温は必須のため、源泉かけ流しとは言えない
露天風呂は最近改修したらしく、大理石の浴槽に檜の縁で、水深も深く気持ちがいい
大田原市寺宿の臨済宗 妙心寺派 正覚山 実相院 光嚴寺(こうごんじ)
那須余一宗隆が、高館城(大田原市大輪)の南の長谷田(現在の五峰の湯付近)に創建し、那須資村(すけむら)が康元2年(1257)現在地に再建し鎌倉建長寺の可翁禅師を招き中興開山た、那須氏の菩提寺
伽藍の周囲には土塁を築き、空壕を掘って、戦乱に際しては城砦の役目をも果していたという
説明が無いが、上が那須三十三所観音第3札所の聖観音を祀る観音堂で、下が本尊の釈迦如来を祀る本堂だろう
枝垂桜が有名な寺だ
光厳寺の鐘楼の鐘は、応長元年(1311)に鋳造された後、寛永16年(1639)、享保8年(1723)の2度にわたって改鋳された銘が、三重になっていることから三鋳銘鐘(さんちゅうめいしょう)といわれ、大田原市指定有形文化財(工芸品)となっている
戦争時の供出を免れ、今日にいたる
最後は黒羽温泉 五峰の湯で「おもて那須」入浴
pH9.9のアルカリ性単純泉は、肌のつるつる感がとても強いが、源泉温度が34.1℃なので加温は必須のため、源泉かけ流しとは言えない
露天風呂は最近改修したらしく、大理石の浴槽に檜の縁で、水深も深く気持ちがいい
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