RADIOBERRY主催「いちごとトマト真っ赤なフェスティバル in 道の駅はが」で、棚橋麻衣を見に行く
昼食は「担々麺専門 はつみ」
野菜たっぷり坦々麺(上)は、新鮮野菜をたっぷり取り入れ、少しとろみのある体にやさしく辛くないスープ
担々つけ麵(下)は、麵も多くカツオ出汁の効いたタレも素晴らしい
上三川の「桃畑Shinka」には上品さがあるが、「はつみ」は直球勝負で、どちらも好い
下高根沢の「かしの森公園」の一角に、梅林があるというのでのぞいてみたが、一分咲きの手前それではと、市貝町市塙の「観音山梅の里」へ向かう
開山年より古くなってしまうことは置いておき、行基菩薩(668-749)の作と伝わる秘仏の千手観音立像は、2010年に1948年以来62年ぶりに御開帳されたそうで、次は60年後というからお会いすることはかなわなそう
ところがこの観音堂を覗くと、千手観音立像が見える
これを御前立(おまえだち)といい、秘仏の御本尊の前にもう一尊別に安置し、参拝に訪れる人々が礼拝する仏像のことをいうそうだ
築城は益子城主益子勝直(かつなお)が、「貞治3年(1364)から一花輪に住み、市塙八館(いちはなはったて)といわれる8つの館を持ち」、その中心を担った城だといわれている
山根城は、堀切3本を隔てた東側の芦原城と、一城別郭形式の城跡のようだ
もとは芦原城しかなかったところに、物見の用に山根城を築いたものではないかと考えられている
市塙八館(御城、文谷城、村上城、山根城・芦原城、市花輪館、石下城、多田羅城、赤埴城)でも、二つでひとつに数えられている
茂木市の千本城の支城のひとつとして築城されたようだが、那須一族の内紛により、烏山方の那須資晴(すけはる)により、千本城もろとも落城となったようだ
山根城跡は、記念樹の森として公園になっており、本丸には見晴台が作られ、確かに物見の用にはもってこいだ
山根城跡は、記念樹の森として公園になっており、本丸には見晴台が作られ、確かに物見の用にはもってこいだ
記念樹の森駐車場前は、市塙駅
六角形の駅舎には、近隣の「武者絵の里 大畑」にちなみ、鍾馗(しょうき)の絵と、
加藤清正が描かれている
市塙駅から南へ100mほどにある、日枝(ひえ)神社・熊野神社
正面が日枝神社、右に並ぶのが熊野神社
栃木名木百選の杉は、推定樹齢300年、樹高35mで町指定天然記念物
屋根までは見えないが、一間社流れ造りの日枝神社本殿
宝永7年(1710)に神輿が完成し、神輿渡御・八朔(はっさく)祭と称して二夜三日祭典を行ってきたが、現在では二日間となったようだ
長暦2年(1038)紀貫之五代目の子孫、市花十郎直正が館の守護神として古宿の地に祭ったのが始めと伝えられ、宝永4年(1707)と享和元年(1801)に社殿再建、明治30年(1897)に現在地に遷座
六角形の駅舎には、近隣の「武者絵の里 大畑」にちなみ、鍾馗(しょうき)の絵と、
加藤清正が描かれている
市塙駅から南へ100mほどにある、日枝(ひえ)神社・熊野神社
永久年間(1113~18)結谷に創建され、久寿2年(1155)現在地に勧請
安永8年(1779)現本殿完成
御祭神は大山咋命、配神は大物主命栃木名木百選の杉は、推定樹齢300年、樹高35mで町指定天然記念物
屋根までは見えないが、一間社流れ造りの日枝神社本殿
宝永7年(1710)に神輿が完成し、神輿渡御・八朔(はっさく)祭と称して二夜三日祭典を行ってきたが、現在では二日間となったようだ
長暦2年(1038)紀貫之五代目の子孫、市花十郎直正が館の守護神として古宿の地に祭ったのが始めと伝えられ、宝永4年(1707)と享和元年(1801)に社殿再建、明治30年(1897)に現在地に遷座
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