2/24/2025

2025/2月のハイク(足利市樺崎町)

2025/2/24 (Mon)
2月4回目のハイクは、足利市公式ハイキングコースで、関東ふれあいの道でもある「マンサクの花咲くみち」の一部を歩いてみる
午後から風が強まるとの予報で、家を8:30に出発し、足利市樺崎町の樺崎(かばさき)八幡宮へ
樺崎八幡宮は樺崎八幡山の麓、元は樺崎寺の池のほとりに立つ
源姓足利氏二代目足利義兼(よしかね)は、源頼朝のいとこで、北条時政(ほうじょうときまさ)の娘を妻とする、義兄弟でもある
文治5年(1189)の頼朝の奥州合戦を前に、義兼が戦勝を祈願するため、樺崎の地を伊豆走湯山(いずそうとうさん)の理真上人(りしんしょうにん)に寄進したのが、樺崎寺の始まりとされている
平泉で毛越寺や中尊寺などの華麗な寺院を見た御家人たちは、それぞれ自分の領地に、池を中心とした浄土庭園を持つ寺院を建てたといわれ、義兼も足利樺崎寺の庭園整備をしたと思われる
建久6年(1195)東大寺で出家し、義称(ぎしょう)と称し、出家後は樺崎寺で念仏三昧の日々を送り、正治元年(1199)3月8日、同寺において死去した後、同地に葬られた(戒名:鑁阿)
生入定(いきにゅうじょう)であったとも伝わる
足利市家富町の鑁阿寺(ばんなじ)は、足利義兼が理真を招聘し、自宅である居館に建久7年(1196)大日如来を奉納した持仏堂、堀内御堂を建立したという
足利氏が力を失うと、樺崎寺も衰退荒廃した
江戸時代に足利氏の末裔を称する喜連川氏により、跡地に八幡宮などが再建されたが、明治の神仏分離令により寺は廃され、境内にあった赤御堂が八幡宮となり、今に至る
一方、八幡宮自体の由緒によると、承和5年(838)桓武天皇の後胤(子孫)である、長六郎兵衛平為俊が、郷内の守護神として赤土山に創立
御冷泉天皇の康平6年(1063)下野守源義家が奥州に向かうに当たり、戦勝祈願のため八幡神を合祀、安倍貞任追討を遂げたことを、氏神の擁護によるものとして赤土山八幡神社と改称

幣殿・拝殿・神楽殿は、1991年に改築
推定樹齢400年のスギのご神木は、市の天然記念物
ご祭神は、誉田別命(十五代応神天皇で八幡宮に祀られる)と赤土命、配神は、源義稱命(足利義兼の神号)
赤土命とは、イザナギの禊で生まれた住吉三神の中筒男と同一神と考えられているが、ここではそもそも、赤土山に赤土山八幡神社として存在したわけで、土着神と考えてよいのではなかろうか
正治元年(1199)に足利義兼が入滅すると、その子義氏が義兼の遺命に従い、義兼の御霊を相殿に祀ったとする本殿は、天和年間(1681~1683)に再建、1988~1989年に修復された、下野ではあまり見かけない、春日造りの本殿だ(市指定の重要文化財)
境内社は、八坂神社(素戔嗚男命)、琴平神社(大物主神)、織姫神社(栲幡千千姫命)、厳島神社(市杵島姫命)だが、これは天満宮(菅原道真)で境外社?
ソシンロウバイとセンダンの実
樺崎八幡宮から「関東ふれあいの道・マンサクの花咲くみち」歩きを開始
北関東自動車道を2度くぐり、マンサクの咲く広場へ








広場の先が、マンサクの花咲くみちの起点だった
林道を少し歩くと、足利の樺崎地区から佐野の寺久保地区へ越える、塩坂(しおざか)峠への山道に入る
針葉樹林帯が続き、マンサクの木はなさそうだが、北郷観光協会が登山道の整備をしているという
急登ではないが、1kmの登坂で弘法大師も越えたという、塩坂峠に到着
北関東自動車道の塩坂トンネルの上にあたる
12時から風が強まる予報だったが、すでにその兆しが出てきたので、北に見える富士見山、寺久保山ではなく、塩の井戸へ
塩坂峠から佐野側へ少し下ると、塩の井戸への登り口がある
ここは、弘法大師が訪れたときに、この地に湧き出る水を飲んだら塩辛かったので、塩の井戸、そして塩坂峠と名付けたと云い伝えられる
看板によると、井戸の周りにマンサクの木が群生しているとあるが、まだ花には早かったのか、過去形になってしまったのか
井戸から峠へ引き返し、マンサクの径から外れて南東へ向かい、鳩の峰方面へ
鳩の峰(標高317m)に到着
鳩の峰は、足利百名山(通は足百というらしい)の第16座でもある
山頂の大きな石碑には「鳩峯山神社改修碑」の銘があるが、社殿は2003年に倒壊し、瓦の残骸が痛々しい
鳩峯山神社は、別名大山祇神社のようで、オオヤマツミを祀っていたに違いない
参道が裾まで続き、立派な改修碑があるほど参拝者がいたのだろうが、今その参道は佐野ゴルフクラブのコースで消滅したようだ

鳩の峰へ登る途中で、一匹の犬が山から下りてきた。見るとGPSのようなものを首に装着している。しばらくすると、同じ犬が山頂へ戻ってきたが、またすぐに降りて行った。山火事の見回りでもしているのだろうか?
木の枝越しに見える、赤城山と
浅間山

鳩の峰から尾根道に引き返し、西に下ると、樺崎雷電山(標高214m)に到着
足利百名山#125座で、別雷命を祀る雷電神社の祠がある
別雷命は、初代神武天皇の母であるタマヨリビメ(玉依毘売/玉依姫)が、石川の瀬見の小川(賀茂川)で遊んでいたところ、川上から丹塗矢が流れてきた。それを持ち帰って寝床の近くに置いたところタマヨリビメが懐妊し生まれた、いわば父親知れずの神武天皇の兄弟である
展望は良くはないが、麓の樺崎八幡宮に停めた車が見えた
浅間山を撮ったつもり
下山道は、土斜面に一生懸命スコップで作ったと思われる、階段ができており、滑り止めに効果大
坂を降りながら、雷電神社を考えていた
雷を電気と結び付けていたのだろうか?電気の発見は、1752年にアメリカの科学者フランクリンが、雷の中で凧(たこ)を上げて雷が電気でできていることを発見したとある。しかしやまとの人は、すでに雷と電気の関係を知っていたことになる。
樺崎八幡宮前にあり樺崎寺の堂宇跡ともいわれる、薬師堂 子育地蔵堂
民家のようなお堂



塩坂峠から佐野側へ下ってしまうと、車が乗り捨てになってしまうので、車で佐野側へ回り込み、塩坂トンネルの東側、佐野市寺久保町の熊野神社へ
北関東自動車道の側道(関東ふれあいの道)に鳥居が2段あり、その先100mほどに神社がある
田原藤太(藤原)秀郷が、唐沢山城の権現堂に勧請した熊野三社を、当地に遷座したと伝わり、そうであれば9世紀後半から10世紀の創建となる
大治2年(1127)に再建され、正中2年(1325)本社造営
昭和14年(1939)の台風による倒木で大破するも、翌年再建された

石段の右手に、大きなツバキの木



祭神は熊野神社なので、伊邪奈岐命、伊邪奈美命
平安中期に権現堂から遷座とあるが、胴羽目の立派な彫刻がその当時のものか、作者などは不明


石祠が並ぶ
ふるさと佐野100選「だっこ杉」は、推定樹齢300年
杉の木がソネ(イヌシデ)の木を包み込み「だっこ」をしているように見える
てっきりこれがだっこ杉だと思い込んでしまったが、だっこ杉はこの切り株ではなかった
でもイヌシデと思われる木の周りに、ご神木であったであろう大杉の切り株が、取り囲んでいますよね
最初に見た2つの鳥居は、高速道路工事で移設されたのかもしれませんね
その鳥居の場所に咲く、シナマンサク(支那万作、Hamamelis mollis Oliv.、マンサク科マンサク属の落葉低木~小高木、中国原産帰化植物)
日本固有種のマンサクより開花時期が早く、前年の枯れ葉が花の時期に残っていることが多い
「マンサクの花咲くみち」の最後に、シナマンサクに出会えました



帰路、西方町金崎の思川で、今年も飛来してくれたハクチョウたちを見て帰宅






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