栃木市箱森町の「香蘭」で昼食
五目中華粥(⇑)、ランチ三点盛(⇓)お粥は、煮込み具合も具も、良くできていておいしいのだが
手羽甘辛揚げ
どれも味付けがしっかりしてあり、それはそれでだめではないのだが、薄味好みとしては、再来は無いかな
摂社の神棚は空になっている
神社の南に湧き水(赤麻沼)があり、周囲に盛土が見られる
手羽甘辛揚げ
どれも味付けがしっかりしてあり、それはそれでだめではないのだが、薄味好みとしては、再来は無いかな
デザートに生絞りモンブランを注文
栗と生クリームは美味しいのだが、パウンドケーキがパサついており、しっかりと減点
若い二人が頑張っているようだが、一皮むけてほしい残念な中華料理屋
栃木市藤岡町中根の八幡神社は、かつての奥東京湾から渡良瀬川をわずかにさかのぼった、高台に鎮座する
文治5年(1189)源頼朝が奥刕東征の砌多日此の地に留まり、鎌倉八幡宮を勧請して戦勝祈願のために創建という
栃木市藤岡町中根の八幡神社は、かつての奥東京湾から渡良瀬川をわずかにさかのぼった、高台に鎮座する
文治5年(1189)源頼朝が奥刕東征の砌多日此の地に留まり、鎌倉八幡宮を勧請して戦勝祈願のために創建という
祭神は、譽田別命(十五代応神天皇)、配神に、磐裂神(雷の神、下野国に多い)、大雷神(落雷除け・火事除け・雨ごいの神)、大杉神(茨城の日光東照宮・大杉神社の祭神の大物主)
摂社の浅間神社に木花開耶姫命(オオヤマツミの娘でニニギの妻)、稲荷神社に稲倉魂命(スサノオの子)、淡島神社に市杵嶋姫命(アマテラスとスサノオの五男三女神、宗像三女神)も本殿に合祀されているようだ
神社の南に湧き水(赤麻沼)があり、周囲に盛土が見られる
盛土は直径約120mの円形になっており、盛土の内部は中根八幡遺跡という集落跡が見つかったという
双葉社発行の「縄文神社」著者で、FB友の武藤郁子さんの言うように、源頼朝よりもはるか太古から、湧水に集まり生活をしていた縄文人たちの祈りの場として、存在していたに違いない
環状盛土遺構の中央に、石仏群が並ぶ
中世には大きな寺院があったという
八幡神社から巴波川の東へ渡り、小山市寒川の胸形神社へ
小山市に三社ある、式内社のひとつで、2023/7/05に訪問している
宗像神社の祭神である、宗像三女神を勧請しており、古事記と同じ「胸形」を名乗っている
続いて、胸形神社の境外社を名乗る網戸(あじと)神社手前にある、時宗 称念寺の寒川尼墓地を訪ねる
中世には大きな寺院があったという
八幡神社から巴波川の東へ渡り、小山市寒川の胸形神社へ
小山市に三社ある、式内社のひとつで、2023/7/05に訪問している
宗像神社の祭神である、宗像三女神を勧請しており、古事記と同じ「胸形」を名乗っている
続いて、胸形神社の境外社を名乗る網戸(あじと)神社手前にある、時宗 称念寺の寒川尼墓地を訪ねる
源頼朝の乳母で、小山政光の後妻、結城朝光の母という存在だ
元和9年(1623)に、氏子より寄進されたという、栃木の名木百選の、2本の巨木(けやき、樹齢400年越え)の間に、二の鳥居
一の鳥居は、600mほど東の道路に立つ石鳥居
この一帯にも、藤岡神社遺跡と呼ばれる縄文時代後期から晩期(BC1500 ~ BC500)の集落跡があり、多くの遺物や人骨などが発掘されているという、縄文神社だ
神楽殿を持つ
社殿は明治期に新築し、昭和15年(1940)に修繕が行われた
祭神は大日靈貴命(アマテラス)、配神に伊弉諾命(イザナギ)、伊弉冊命(イザナミ)、月読命(ツクヨミ/ツキヨミ、アマテラスの兄弟で夜を司る)、天児屋根命(アメノコヤネ、占いの神)、天宇受売命(アメノウズメ、演芸の神)
ケヤキの右に半月
本殿側へ回り込む
本殿を後ろから失礼します
拝殿の右端から
境内社に、稲荷神社と東照宮があるそう
この右手にある大岩藤浄化センター建設工事に伴い、栃木県が記録保存の発掘調査を実施し、土器・土製品(土偶、動物形土製品など)829点、石器・石製品(石剣・石冠など)408点、骨角牙貝製品(垂飾、貝輪など)7点のほか、30体以上の人骨が発掘され、全身が見つかったものもあったという
天慶3年(940)に創建され、六所大明神と称した
天正5年(1577)藤岡城落により社殿兵火により焼失し、天正18年(1590)に再建
正徳2年(1712)京都神祇伯(じんぎはく)より正一位の神号を受け、文政4年(1821)紫崗神社と改称後、明治8年(1875)から藤岡神社に改称ユニークな顔の狛犬が一対この一帯にも、藤岡神社遺跡と呼ばれる縄文時代後期から晩期(BC1500 ~ BC500)の集落跡があり、多くの遺物や人骨などが発掘されているという、縄文神社だ
神楽殿を持つ
社殿は明治期に新築し、昭和15年(1940)に修繕が行われた
祭神は大日靈貴命(アマテラス)、配神に伊弉諾命(イザナギ)、伊弉冊命(イザナミ)、月読命(ツクヨミ/ツキヨミ、アマテラスの兄弟で夜を司る)、天児屋根命(アメノコヤネ、占いの神)、天宇受売命(アメノウズメ、演芸の神)
ケヤキの右に半月
本殿側へ回り込む
本殿の裏に、宝物殿のような建物
「常宝殿」の額
中には何が保管されているのだろう
常宝殿の前にも、ロボット的な狛犬がいます本殿を後ろから失礼します
拝殿の右端から
境内社に、稲荷神社と東照宮があるそう
この右手にある大岩藤浄化センター建設工事に伴い、栃木県が記録保存の発掘調査を実施し、土器・土製品(土偶、動物形土製品など)829点、石器・石製品(石剣・石冠など)408点、骨角牙貝製品(垂飾、貝輪など)7点のほか、30体以上の人骨が発掘され、全身が見つかったものもあったという
土製品には、耳飾り、ミニチュア土器、イヌ形土製品など珍しいものも含まれ、一部は国の重要文化財に指定され、大半の出土品は、栃木県立博物館に寄託されているというやはり縄文期からの集落があり、祈りの場として使われていた場所に違いない
藤岡神社から東に戻り、曹洞宗 潜龍山 繁桂禅寺(はんけい)
久安年間(1145年頃)に建立、後に藤岡領主藤岡出羽守政房公の開基にて、仙龍院改め繁桂寺とした
藤岡神社から東に戻り、曹洞宗 潜龍山 繁桂禅寺(はんけい)
久安年間(1145年頃)に建立、後に藤岡領主藤岡出羽守政房公の開基にて、仙龍院改め繁桂寺とした
大永2年(1522)に、現大平町榎本の大中寺より、無学宗大和尚が来て曹洞宗に改宗
寛永5年(1628)に、八世別伝存策大和尚が現在の地に引寺して、寛永10年(1633)に潜龍山 繁桂寺となる
本尊は、釈迦牟尼佛
繁桂寺の山門を出て、前方に少し行くと「弁天池伝説」と言う案内板が立っている小さな塚の様な場所が、個人宅の庭の隅にある
本尊は、釈迦牟尼佛
繁桂寺の山門を出て、前方に少し行くと「弁天池伝説」と言う案内板が立っている小さな塚の様な場所が、個人宅の庭の隅にある
小さな石の祠や石碑などがあり、その中に「名月や池をめくりて夜もすから 芭蕉翁」と彫られた芭蕉句碑がある
栃木市指定史跡で、ヤマトシジミの淡水性貝を中心に、カキ、サザエ等の海洋性貝も見られる
前期関山式土器、多量のシカやイノシシの骨も見つかっており、またそれを用いて作られたであろう針、ヤスなどの骨角器や、貝製の腕輪も見つかっているが、この時期によく見られる黒曜石製の石器等の発見は少ないという
渡良瀬遊水池の治水作業に伴う土手の工事のため、この遺跡は破壊され、同時に県指定史跡も解除されたという
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