今日は家から車で15分圏内を散策
「西石橋壬生」と書かれた道標が、JR石橋駅東口から南へ約1kmのところにある
他の面は読めなかったが、「南 薬師寺・仁良川」、「西 石橋・壬生」、「東 上三川・大沼」、「北 茂原・雀宮」と刻まれているようだ
道標の北東に、「多功城跡」があり、この山のことだと思われるが、痕跡を見つけられなかった
下野市周辺において特徴的な「下野型古墳」と呼ばれる大型の古墳でしたが、明治時代の東北本線の建設により墳丘が東西に分断された後、昭和47年から行われた東北新幹線の建設工事により墳丘はほとんど削られてしまい、現在はわずかな高まりが残されているのみとなった
東北新幹線建設の際に発掘調査が実施され、周溝の外側の直径が約112mの円形で、周溝の内側が全長約84mの帆立貝形であることがわかりました
西に進み「大光寺城跡」へ行ってみたが、完全に新興住宅地として生まれ変わっていた
西に進み「大光寺城跡」へ行ってみたが、完全に新興住宅地として生まれ変わっていた
孝謙天皇(こうけん)とは、第46代天皇として天平勝宝元年(749)から758年の史上6人目の女性天皇で、その後第48代称徳天皇(しょうとく)として、天平宝字8年(764)から770年に重祚している
第47代淳仁天皇に譲位し、太上天皇となっていた天平宝字5年(761)に病に伏せった孝謙上皇は、看病に当たった弓削氏の僧・道鏡を寵愛するようになった
称徳天皇となった後の天平神護元年(765)、称徳天皇は道鏡の故郷である河内弓削寺に行幸した。この弓削行幸中に道鏡を太政大臣禅師に任じ、本来臣下には行われない群臣拝賀を道鏡に対して行わせた
神護景雲4年(770年)発病し、病臥。看病の為に近づけたのは宮人(女官)の吉備由利(吉備真備の姉妹または娘)だけで、道鏡は崩御まで会うことはなかった
称徳天皇は平城宮西宮寝殿で崩御した。宝算53
道鏡は失脚し、下野国薬師寺別当に左遷され、弓削浄人も土佐に流された
二人は女帝の御陵より分骨をして戴き、銅製の舎利塔に納め当地にあった西光寺に安置し女帝の供養につとめた
称徳(孝謙)天皇と道鏡の間には子供がおり、皇子の英親王(女性の英子内親王の二説あり)も奥州の国府(役所)に流された。
12~13歳だった英親王は、主立った従者、野原真人(のはらのまひと)と竹ノ内阜見(たけのうちおかみ)に守護され、道鏡より10日ほど遅れた770年8月22日に、奈良の都をあとにした。
はるばる東山道をぬけ、父がいる下野薬師寺まであと少しという、下野国都賀群千種里で、脚気(かっけ・栄養失調)にかかり、全く歩けなくなってしまう。
旅を続けられなくなったとこを受け、従者両名は、下野国府(下野薬師寺と同じ地域にある)に申請し、国府の援助により千種の里に仮殿を建てました。
英親王は療養中、薬草を栽培し、回復に努め、里人にも薬草の使い方を広く伝えたことで、
里人にたいへん喜ばれました。
そしてこの土地を「千種の里」と呼ぶようになりました。
そんな英親王ですが、772年9月18日、療養すること25ヶ月にして、病も癒えず亡くなってしまいます。
従者たちは、下野国府に申請し援助を受け、千種の里そばの「山田の里」に御陵をつくり英親王を手厚く葬りました。
朝廷は英親王に「神ノ倉(かんのくら)大権現」の号を与え、社殿をつくり御霊をお祀りしました。
時は流れ、明治44年(1911)親王の御霊がお祀りされていた神ノ倉大権現の社殿が、富田八坂神社に移され、更に大正5年(1916)に国分寺町の川中子の八幡宮に移築され、それとは知らず訪問するのである
さらに北上すると「下野星宮神社」
一の鳥居には、蛇のしめ縄
二の鳥居にもへびしめ縄
当社は昔から巳(へび)がしめ縄飾りになっております。一説には龍との話もあります。
大同2年(807)開拓守護神として日光に地盤を持つ、磐裂・根裂神の神様を、児山の郷の乾の方に祀ったのが始まりと伝えられる
大同2年(807)開拓守護神として日光に地盤を持つ、磐裂・根裂神の神様を、児山の郷の乾の方に祀ったのが始まりと伝えられる
したがい、祭神は磐裂神(いわさく)・根裂神(ねさく)、およびその子供の、千葉県香取神宮祭神の經津主神(ふつぬし)
星宮神社では、13の境内社をお祭りしています。
魔去ル石(まさるいし)と呼び、魔が去るが転じて勝る(まさる)となり、幸せを勝ち取ると言う石だそうです。
あすなろ龍神御柱
ある日、星宮神社の境内から突然黄金の土竜(もぐら)が出現。 当社では大変縁起の良い土竜(竜)に因んで新たにあすなろ龍神御柱をお祀りしております。
ある日、星宮神社の境内から突然黄金の土竜が出現。
当社では大変縁起の良い土竜(竜)を新たに境内に祀ることになりました。
明日桧(あすなろ)の大木で奉製しました黄金の柱「あすなろ竜神御柱」です。
明日桧の言葉の起源は「明日はヒノキになろう」という説があり、希望と努力と言う意味をもっております。
日本神話で土竜が「オコロ」と言う神様として登場します。迦具土神と埴安姫神の子ですが、空を飛ぶ龍に成ろうとしたが飛べない龍となった神様です。
明日は桧に成れるかな、いつかは空を飛びたいな、という二つの向上心を込めてお祀り致しました。
あなたも「あすなろ竜神御柱」に願って明日からは金運上昇・諸願成就へ
星宮神社では、13の境内社をお祭りしています。
魔去ル石(まさるいし)と呼び、魔が去るが転じて勝る(まさる)となり、幸せを勝ち取ると言う石だそうです。
神楽殿は、明治39年に建て替えられたもので、吉田流太々神楽が代々伝えられています
こちらが境内で発見された「金の土竜」検査の結果、先天的にメラニンが欠乏する遺伝子疾患(アルビノ)のモグラだそう
年末ですが平日の夕方、人も少なく、ゆっくりと地元の神社を堪能しました
ちなみに、「とちぎのふるさと田園風景百選」に選ばれている場所です
年末ですが平日の夕方、人も少なく、ゆっくりと地元の神社を堪能しました
昔から中国では、「貘(バク)」は龍と並んで霊獣として人々の信仰を集めています。
私たちの悪い夢(厄)や、鉄・青銅(武器)を食べて、良い夢(幸福)と、平和な世界を与えてくれる「貘」の化身が夢福神(ゆめふくじん)です。
県内の九ヶ所の神社に夢福神が鎮座されております。それぞれの夢福神には特徴があり、当社は方位除の夢福神をお祀りしております。
西の参道の行灯大鳥居から、日光方面が望めますが、男体山は雪雲の中
この鳥居は「日本一の行灯大鳥居」だそうで、参拝者がこの大鳥居に願い事を書き込み、新たな一年の誓いを立てるそう
しめ縄に使われているへびは、脱皮することにより新たな命が注がれる、不死の生き物と言われていたそう
そのことから復活と再生を表す生き物として、長寿や蓄財そして自然を司る象徴とされてきました。
この注連縄はこの周辺地域の数多くの神社で奉製されておりましたが、現在は数社のみとなり大変貴重な注連縄です
トトロも不老不死なのでしょうか?ちなみに、「とちぎのふるさと田園風景百選」に選ばれている場所です