午前中に歯医者の予約があり、11時から日光へ
先ずは寂光の滝を目指します
若子神社下の広場でお弁当をいただきます
荘厳な雰囲気の神社です
ここでもフタリシズカが出迎えてくれます
5月に訪れた瀧尾神社をたてた弘法太子空海が、次に弘仁11年(820)小祠を建て、寂光寺として栄えたそうですが、明治の神仏分離後、火災によりすべてを失い、若子神社として再建されたそう
奉造立石像不動尊
本殿には下照姫命(したてるひめのみこと/したでるひめのみこと、下光比売命)を祀る
拝殿と本殿
この左手に、寂光(じゃっこう)の滝が見える
とちぎの景勝百選に入る、高さ50メートル、幅6メートル、7段の滝とされています
滝下まで降りてきました
左右の張り紙によると、「マスク着用、参拝者のみ」に加えて、「観光目的は入るな」とある
ここでもフタリシズカが出迎えてくれます
5月に訪れた瀧尾神社をたてた弘法太子空海が、次に弘仁11年(820)小祠を建て、寂光寺として栄えたそうですが、明治の神仏分離後、火災によりすべてを失い、若子神社として再建されたそう
奉造立石像不動尊
本殿には下照姫命(したてるひめのみこと/したでるひめのみこと、下光比売命)を祀る
拝殿と本殿
この左手に、寂光(じゃっこう)の滝が見える
とちぎの景勝百選に入る、高さ50メートル、幅6メートル、7段の滝とされています
滝下まで降りてきました
片道10分かからない、簡単なトレイルでした
車を田母沢(たもざわ)街区公園駐車場に移し、憾満(かんまん)の路をハイキング
大谷(だいや)川の手前に、浄光寺左右の張り紙によると、「マスク着用、参拝者のみ」に加えて、「観光目的は入るな」とある
英語では「仏教徒限定」とあり、インバウンド客は受け入れないと
寺内には、日光最古の梵鐘、洪水で流された並び地蔵の御首、日限地蔵尊、導き地蔵尊などの観光名所があるようだが、寺側がその姿勢なら、観光ガイドマップから外すべきと考えるが、いかが?
慈雲寺
男体山の噴火によって創られた渓流「憾満ヶ淵(かんまんがふち)」は、とちぎの景勝百選
ここから「並び地蔵(化け地蔵)」が始まる
地蔵を数える度に数が異なっているという奇聞から、化け地蔵とも呼ばれているようだ
お地蔵様の頭のコケを落とすと器物損壊だそうだが、毛糸の帽子をかぶせてあげるのは、損壊はしていないが、いいのか?
霊庇閣(れいひかく)の対岸の岩に刻まれた「カンマン」の梵字は、弘法大師の投筆と言われています
このあたりのお地蔵さまは、洪水で流されてしまったのでしょうか
ここから大谷川を少し離れ、日光バイパス沿いの遊歩道となります
マタタビの木
糠塚稲荷神社
大日橋
渓流の始まりです
大日橋を渡り、橋のたもとにある「大日堂跡」は、輪王寺の管理下です
芭蕉句碑がありますが、判読できません
日光ロマンチック街道へ出て、日光植物園まで来ましたが、ここは別の機会に訪問させていただくとします
花石(はないし)神社
およそ千二百年前、日光山を開いた勝道上人が、蓮華石に坐して日光連峰十八の山々を遙拝、弘仁年中(810~824)十八神をここに祀った
徳川時代までは「十八王子」と呼ばれ、正保2年(1645)に徳川家光が社殿を改造し、明治2年祭神を少名彦名命として、社号を花石神社と改めた。花石町の氏神である
若山牧水歌碑
鹿のゐていまもなくてふ下野の
なきむし山の峰のまどかさ
焼加羅(たきがら)の碑(左)
推定樹齢約600年(昭和51年現在)すでに50年近く前だし
境内社
日光ロマンチック街道の向かい側に、蓮華石があります
ニリンソウ(二輪草、Anemone flaccida)
飛石八幡神社
天平神護2年(766)日光を開いた勝道上人が、ここに草庵を結んでいたとき、天から丸石が飛んできて「八幡大自在である。国家守護のために来た。」という夢を見たので「飛石八幡」として祀ったと伝えられる。寛永年間(1624-1643)徳川家光が幕府の修繕社とした。中本町と原町(現在は本町第三と安川町)の氏神で祭神は、譽田別命(応神天皇)である
釈迦堂
表門は素木造りの簡素な四脚門
貞享元年(1684)焼失、貞享4年(1687)再建、正徳元年(1711)造替
創立年代は不明。山内地内の仏岩谷の開山堂わきから、寛永18年(1641)妙道院とともに現在の地に移された。妙道院は明治初年に途絶えた。
本尊は釈迦如来座像で、脇侍として文殊、普賢の両菩薩を安置し、天海大僧正の像も祀ってある。
創立年代は不明。山内地内の仏岩谷の開山堂わきから、寛永18年(1641)妙道院とともに現在の地に移された。妙道院は明治初年に途絶えた。
本尊は釈迦如来座像で、脇侍として文殊、普賢の両菩薩を安置し、天海大僧正の像も祀ってある。
本史跡は、雄大な女峰山の東南麓、大谷川北岸に南面する栃木県指定有形文化財(建造物)釈迦堂の西側にあり、総数24基の墓碑がすべて釈迦堂本堂に東面して整然と立ち並んでいる。これらの墓碑は、江戸時代には、前・中・後の3列で、前列(5基)が徳川三代将軍家光の殉死者5名の墓碑、中列(12基)と後列(7基)が初代将軍家康・二代将軍秀忠の譜代家臣の墓碑であった。しかし、明治31年(1898)、田母沢川支流の根通川の水を田母沢御用邸に引く用水工事のため、後列の7基が前列右側に移され、現在の2列になった。
写真は前列の徳川譜代家臣の大墓石
慶安4年(1651)4月20日、徳川3代家光公の死に際して、殉死した、堀田正盛・阿部重次・内田正信・三枝守恵・奥山安重の5名の「殉死の墓」
トキワナズナ(常盤薺、ヒナソウ(雛草)、Houstonia caerulea)
釈迦堂の裏手にも、梵字の刻まれた石柱がたくさん
クリンソウが最後の時期である
延命地蔵尊
赤い家に入った石造地蔵座像二体は、市指定有形民俗文化財
湯ノ湖畔に勝道上人が自ら刻んだという石造の延命地蔵尊があった。室町時代のこと、板橋将監という領主が、湯元に狩猟に出かけた。その折、地蔵を嘲り地蔵と犬をつないで、湖水に投げ込んだ。はじめ犬が地蔵を湖心に引いたが、やがて地蔵は犬を引き岸に向かった。そのとき、激しい雷雨が起こり、犬は悶え死んでしまった。将監や家来は口から血を吐いて倒れたが、僧が駆けつけて地蔵を拝んだところ、一同は助かり、地蔵を崇拝するようになった。それで、犬牽地蔵尊とも呼ばれる。中宮祠・湯元地区は、女人禁制であったため、江戸時代に上人ゆかりの現在地に移された。
スタート地点に戻り、ぐるっと憾満の路を満喫しました
慶安4年(1651)4月20日、徳川3代家光公の死に際して、殉死した、堀田正盛・阿部重次・内田正信・三枝守恵・奥山安重の5名の「殉死の墓」
トキワナズナ(常盤薺、ヒナソウ(雛草)、Houstonia caerulea)
釈迦堂の裏手にも、梵字の刻まれた石柱がたくさん
クリンソウが最後の時期である
延命地蔵尊
赤い家に入った石造地蔵座像二体は、市指定有形民俗文化財
湯ノ湖畔に勝道上人が自ら刻んだという石造の延命地蔵尊があった。室町時代のこと、板橋将監という領主が、湯元に狩猟に出かけた。その折、地蔵を嘲り地蔵と犬をつないで、湖水に投げ込んだ。はじめ犬が地蔵を湖心に引いたが、やがて地蔵は犬を引き岸に向かった。そのとき、激しい雷雨が起こり、犬は悶え死んでしまった。将監や家来は口から血を吐いて倒れたが、僧が駆けつけて地蔵を拝んだところ、一同は助かり、地蔵を崇拝するようになった。それで、犬牽地蔵尊とも呼ばれる。中宮祠・湯元地区は、女人禁制であったため、江戸時代に上人ゆかりの現在地に移された。
スタート地点に戻り、ぐるっと憾満の路を満喫しました
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