佐野市飛駒(ひこま)町の根古屋(ねごや)森林公園へ
唐沢山城の出城であった要谷山(ようがいさん)城跡を目指します
キャンプ場からの「いけづきの道」入り口にはロープが張られていましたが、かまわず侵入
セリバヒエンソウ(芹葉飛燕草、Delphinium anthriscifolium)
ファミリーピクニックかと思っていましたが、結構ハードな登りです
まもなく石垣が見えたので本丸かと思いきや、金毘羅宮と呼ばれる曲輪と思われます
ここで視界が開けます
そして山頂付近まで見えてきますが、まだ結構ありそうだ
倒木を乗り越え、山頂を目指します
山頂直下でギンリョウソウ(銀竜草、ユウレイタケ、Monotropastrum humile)と初対面
色素を持たないため光合成も行わないが、植物(ツツジ科)だという
ベニタケ、チチタケなどの数多くの菌類に寄生し、樹木が光合成により作り出している有機物を、菌経由で得て共生しているという、超怠け者である
花が開く直前かと思ったが、受粉後の口をすぼめた状態なのかもしれない
セリバヒエンソウ(芹葉飛燕草、Delphinium anthriscifolium)
ファミリーピクニックかと思っていましたが、結構ハードな登りです
まもなく石垣が見えたので本丸かと思いきや、金毘羅宮と呼ばれる曲輪と思われます
ここで視界が開けます
そして山頂付近まで見えてきますが、まだ結構ありそうだ
倒木を乗り越え、山頂を目指します
山頂直下でギンリョウソウ(銀竜草、ユウレイタケ、Monotropastrum humile)と初対面
色素を持たないため光合成も行わないが、植物(ツツジ科)だという
ベニタケ、チチタケなどの数多くの菌類に寄生し、樹木が光合成により作り出している有機物を、菌経由で得て共生しているという、超怠け者である
花が開く直前かと思ったが、受粉後の口をすぼめた状態なのかもしれない
マルハナバチなどが訪花して受粉するそうだ
花期が終わると液果をつけ、モリチャバネゴキブリに果肉を提供する代わりに種子を散布してもらうという、恐ろしく他人任せな植物なのだ
要谷山は標高は、どのNet記事でも「約」400mと書かれている
木の新緑と夏の雑草で、展望はあまり効かないし、城址(本丸)である看板も見当たらない
下山は「するすみの道」を行こうとしたが、ルートが明確でないため、「せんげんの道」を行く
左手は山を切り開いてあるため、見晴らしがよい
ふもとの町がだんだん近づいてきた
急坂を過ぎ森林に入ると、地面のあちこちに白い泡のようなものを目にした
ギンリョウソウの芽かとも思ったが、樹幹流という意見もある
カエルの卵説も捨てがたい
ミヤマタムラソウ(深山田村草、ケナツノタムラソウ、Salvia lutescens var. crenata)
ガクアジサイ (額紫陽花、Hydrangea macrophylla)が、アジサイの原種だそうで、アジサイの原産は日本だそう
ふもとから見上げた要谷山
林道ですれ違った人は0人、ふもとに降りたときに3人に出会いました
賀茂別雷(かもわけいかづち)神社
天智8年(669)菊沢山の中腹に社殿を建てたのが始まり
御祭神は「賀茂別雷の神」で、神道の神様だが、山の神、農業の神として奉られて、落雷除け、嵐除け、五穀成就、天下泰平の神として崇敬されてきたそうだ
本殿は宝暦11年(1761)の建築で、明治43年(1910)現地に遷座されたという
要谷山は標高は、どのNet記事でも「約」400mと書かれている
木の新緑と夏の雑草で、展望はあまり効かないし、城址(本丸)である看板も見当たらない
下山は「するすみの道」を行こうとしたが、ルートが明確でないため、「せんげんの道」を行く
左手は山を切り開いてあるため、見晴らしがよい
ふもとの町がだんだん近づいてきた
「せんげんの道」もところどころでルートを探しながらの下山となる
樹木へのテーピングもされていないのが、子供連れには不安であろう急坂を過ぎ森林に入ると、地面のあちこちに白い泡のようなものを目にした
ギンリョウソウの芽かとも思ったが、樹幹流という意見もある
カエルの卵説も捨てがたい
ミヤマタムラソウ(深山田村草、ケナツノタムラソウ、Salvia lutescens var. crenata)
ガクアジサイ (額紫陽花、Hydrangea macrophylla)が、アジサイの原種だそうで、アジサイの原産は日本だそう
ふもとから見上げた要谷山
林道ですれ違った人は0人、ふもとに降りたときに3人に出会いました
賀茂別雷(かもわけいかづち)神社
天智8年(669)菊沢山の中腹に社殿を建てたのが始まり
御祭神は「賀茂別雷の神」で、神道の神様だが、山の神、農業の神として奉られて、落雷除け、嵐除け、五穀成就、天下泰平の神として崇敬されてきたそうだ
本殿は宝暦11年(1761)の建築で、明治43年(1910)現地に遷座されたという
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