1/01/2023

2023/1月の散歩(薬師寺)

2023/1/01
明けましておめでとうございます
正月日和に誘われて、車で15分の薬師寺方面へ
下野薬師寺
白鳳8年(680)、天武天皇の勅願により創建された
同時期に建った奈良の薬師寺と区別するため下野国の薬師寺は下野薬師寺と呼ばれる

暦応2年(1339)、足利尊氏により寺名が安國寺に改称されたが、2017年に、本堂・山門・庫裏・本尊並びに仏菩薩の修理(平成の大修理)を機に、寺名を下野薬師寺に戻しました


下野薬師寺が東国仏教文化の中心として特に隆盛をほこるようになったのは、天平宝字5年(761)に鑑真和上によって戒壇院が建てられてからです
奈良の東大寺、筑紫の観世音寺と、それに下野薬師寺を合わせて日本三戒壇といわれていました

東山道足柄以東坂東10カ国の僧侶となる者は、すべてこの下野薬師寺で修行し、授戒をしなければならない定めになっていました
日光開山の祖、上道上人も、ここの修行僧でした
また、年末に訪れた孝謙天皇神社ゆかりの道鏡禅師は、称徳天皇(孝謙天皇が重祚)の死去により後ろ盾を失い失脚し、宝亀元年(770)造下野国薬師寺別当(総責任者)として着任しました
ツバキの学名はJapanese camelliaというのは知らなかったが、葉の先端が金魚の尾のような形をしている
さらに写真が下手だが、先端だけ完全に独立してしまうものもいる
一種の帯化現象(植物の茎の一部の突然変異により、帯のように平らになる現象)により、先端が三つほどに分かれるツバキの葉を「錦魚葉(きんぎょば)」と呼ぶそうだ
Diversityの一つとして、受け入れてよいのではないでしょうか
下野薬師寺の東には、薬師寺八幡宮があります
まずは一の鳥居の右手にある、天狗山雷電神社へ




薬師寺八幡宮の参道に戻るが、貞観17年(875)清和天皇の御勅定により東北守護の大神として京都石清水八幡宮の御神霊を勧請し鎮座したと云われている、又一方で、下野薬師寺の守り神(仏法の守護)として奈良時代に九州宇佐神宮より御神霊を勧請して鎮座したとも云われている
参道脇の梟社殿

二の鳥居
大国・恵比寿・毘沙門・弁天の四福神(至福)を祀る至福神社
神楽殿

拝殿
祭神は、息長帯姫命(おきながたらしひめ)、誉田別命(ほんだわけ)、玉依姫命(たまよりひめ)
境内社の一つ八坂神社は、1300年の歴史を誇るお社で、御社殿は宝暦6年(1756)の建造でしたが、東日本大震災で被害を被り、平成28年に再建されました。

八坂神社の神殿

薬師寺八幡宮の神殿
八幡宮から北に行くと、藤麿墳(ふじまろふん)がある
日光開山の祖、勝道上人は、父藤麿が没すると、遺骨を上人修行の地である薬師寺の地に埋葬し、白藤の木を植えて墓標としたと伝えられています。安政4年(1857)9月、薬師寺村役人並びに世話人が発起人となって、白藤の木ではいつかその地が不明になることを憂い石碑を建立したと伝えられます。
さらに北に行くと、御鷲山古墳(おわしやま)
前方部を西に向け2段に築造され、墳丘の全長は約74mです。埋葬施設はくびれ部の前方部よりに、南に開口する両袖型の横穴式石室が設置されています。石室は凝灰岩の切石を用いた複室構造です。出土遺物は鉄鏃や刀子、小札(挂甲の部品)、馬具などのほか、円筒埴輪、朝顔形埴輪、形象埴輪も確認されています。これらのことから、この古墳は6世紀の後半に造られたと考えられます。
ちなみに、勝道上人が薬師寺で修業していたのが西暦760~765年、道鏡禅師が薬師寺に左遷してきたのが769年と、いずれも8世紀の出来事です
ここから西へ、地蔵山へ



12世紀の『今昔物語集巻17下野国僧衣地蔵助知死期語第30』記述の地蔵菩薩坐像と伝えられ、現在の地蔵は延宝6(1678)年の刻銘より再建のものと思われます。
五輪塔の破片が散乱していることから、中世以降は墓地として利用されていたと考えられます
里山の中に、いくつもの石仏が立てられています

初詣を兼ねた、正月散歩となりました




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