2023/1/09
日光市の南部、小来川と書いて「おころがわ」と読みます
西小来川の不動明王
壬生へ行く途中の黒川、その源流がわく場所です
黒川の支流、西黒川を日光方面へ登ると、大滝がある
滝つぼまでは簡単に行けそうもないが、清流であることはわかる
小来川集落からは、雪化粧の男体山も頭を見せる
今日のハイクは、黒川神社から
社傳に曰く桓武天皇の御宇延暦十年(791)征夷副使坂上田村麿出征の際戦勝鎭撫のため常總野奥の四州に一百餘社の武祖棟梁の大神を勸請せして云へいしか本社も其一なりと云ふ
一の鳥居をくぐり、趣のある参道が続く
本殿裏に、夫婦の御神木があるようだ
一の鳥居側
文化7年(1810)に作られたという、石畳
本殿は、積雪除けだろうか、一回り大きな屋根と板に囲まれている
祭神は経津主命
本殿の左手の境内社だろう
裏手の御神木を見上げる
右手にも古い祠がある
黒川神社を出て、小来川の集落を歩く
西黒川の橋を渡り、日光山輪王寺の直末寺「圓光寺」へ
枝垂桜が見事であろう
日光開山の祖、勝道上人によって開かれ、享保2年(1717年)に現在の場所に移されたそう
石段の前に北向き地蔵
黒川の支流、西黒川を日光方面へ登ると、大滝がある
滝つぼまでは簡単に行けそうもないが、清流であることはわかる
小来川集落からは、雪化粧の男体山も頭を見せる
今日のハイクは、黒川神社から
社傳に曰く桓武天皇の御宇延暦十年(791)征夷副使坂上田村麿出征の際戦勝鎭撫のため常總野奥の四州に一百餘社の武祖棟梁の大神を勸請せして云へいしか本社も其一なりと云ふ
一の鳥居をくぐり、趣のある参道が続く
本殿裏に、夫婦の御神木があるようだ
一の鳥居側
文化7年(1810)に作られたという、石畳
本殿は、積雪除けだろうか、一回り大きな屋根と板に囲まれている
祭神は経津主命
本殿の左手の境内社だろう
裏手の御神木を見上げる
右手にも古い祠がある
黒川神社を出て、小来川の集落を歩く
西黒川の橋を渡り、日光山輪王寺の直末寺「圓光寺」へ
枝垂桜が見事であろう
日光開山の祖、勝道上人によって開かれ、享保2年(1717年)に現在の場所に移されたそう
石段の前に北向き地蔵
安産と子供の健やかな成長をお祈りするお地蔵様
苔むした、素晴らしい石段を登る
江戸時代に積まれたと伝えられる石垣と鐘突堂
雪の残る日陰路
向原たたき地蔵は、その昔、古峰神社へ参詣途中の旅人が、足の痛みから歩けなくなってしまい、そばにあったこの地蔵の足を石で叩いたところ、たちどころに痛みが消え去ったという伝説が残っています。以後、自分の体の悪いところを石で叩く人が増え、今ではあちこちがへこんだ姿になってしまっています
顔に痛みを抱える人が多かったのでしょうか
清流ときれいな空気で、蛍がいるんでしょうね
道端に銀杏売りがあり、一つ買ってもらいました
西黒川と日光連山
苔むした、素晴らしい石段を登る
江戸時代に積まれたと伝えられる石垣と鐘突堂
天文9年(1540)に建てられたと考えられる宝篋印塔があり、日光市の文化財に指定されている
男根と女陰と思われるが、説明は無し雪の残る日陰路
向原たたき地蔵は、その昔、古峰神社へ参詣途中の旅人が、足の痛みから歩けなくなってしまい、そばにあったこの地蔵の足を石で叩いたところ、たちどころに痛みが消え去ったという伝説が残っています。以後、自分の体の悪いところを石で叩く人が増え、今ではあちこちがへこんだ姿になってしまっています
顔に痛みを抱える人が多かったのでしょうか
清流ときれいな空気で、蛍がいるんでしょうね
道端に銀杏売りがあり、一つ買ってもらいました
西黒川と日光連山
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