9/29/2023

長野旅行5(戸隠)

2023/9/29
ロッジの前の飯縄山(いいづな)を、霧が登ってゆく
今日はいい天気になる予感

ロッジわきの展望台に登ってみる
雲がなければ北アルプスが一望できたはず



夜、天気が良ければ天文台、悪くてもプラネタリウムが宿泊とセットだが、我々だけなので遠慮した

ガマズミの実

標高1,200mの飯縄山
2泊お世話になったロッジを出発
小川アルプス道路を北に向かうと、鬼無里(きなさ)村



村の中心部にある、曹洞宗 凌雲山 松巖寺(しょうがんじ)
信濃三十三観音霊場の番外札所
先ずは一人の女性から、寺の縁起が始まります
源経基公の寵姫(ちょうき)であった才色兼備の紅葉
900年代の話、正妻の侍女から源経基の寵愛を受け子供を身籠りましたが、邪魔になった正妻を呪殺しようとしたのか、正妻の嫉妬からか、信州戸隠へと流されました
罪人として流された紅葉ですが、美しく知性溢れる彼女を村人たちは慕うようになります
子も無事出産し、経若丸と名付けたという
紅葉は流されたこの土地を京になぞらえて呼び、懐かしみましたが、やがて経若丸には「都で武士になってほしい」と期待し、再びの上京を決意します
その動きを見た朝廷の命で、平家一門の平維茂(これもち)が討伐に向かいました
安和2年(969)10月、33歳の紅葉を討ち取った平維茂は、紅葉が息を引き取った洞窟に祀られていた紅葉の守護仏・地蔵尊を村に持ち帰り、供養するため現在の観音堂あたりにお堂を建て、という割には時は流れた元和元年(1615)「鬼立山 地蔵院」と称しました
石段を上ると、まず観音堂があります
寛永2年(1625)又は3年の建立と言われ、長野市の有文
山門と六地蔵
江戸時代初期に松厳和尚が曹洞宗の寺院を開き、松厳寺と改めました。山号は江戸時代中期の度重なる雨災から「雲を凌ぐ」と書いて凌雲山(りょううんざん)となりました
紅葉は「妖怪変化の鬼女である」と言われ、多くの悪事を働いていたという伝承もあります
「鬼女紅葉の伝説」を題材にした能の謡曲「紅葉狩」では、美女に化けて人を襲う鬼であるとされています
経蔵(市指定有文)内部には元文4年(1739)建築の六角輪蔵(ろっかくりんぞう)があり、大般若経600巻と一切経2030巻、十六羅漢絵像1幅が収められている

鐘楼
本尊は聖観音
本堂内へは、自由に入れます。さすが、鬼の無い里
天井絵
寺の畑にシオン

平維茂軍に対し、ここから北東にある荒倉山系に籠り、対峙したといわれる紅葉軍の墓
背景が荒倉山の、紅葉の墓
登山道には、紅葉が隠れ住んだと言われる「鬼の岩屋」、「釜背負い岩」の奇岩や「紅葉の化粧水」などが点在するという
鬼無里から戸隠へ向けて県道36号線を進むと、大望峠
展望台として有名な場所
わずかにだが、五竜岳と白馬鑓ヶ岳の頂上が見える

峠を越えると、いよいよ妙高戸隠連山国立公園、戸隠の神話の世界に入る

戸隠神社とは、霊山戸隠山のふもとにあり、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなる
はるか神代の昔、高天原に由来する「天岩戸開き神話」ゆかりの神々を祀っています
神々の物語により、奥社の御祭神は天手力雄命(あめのたちからおのみこと)、中社は天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)、火之御子社は天鈿女命(あめのうずめのみこと)、宝光社は中社祭神の御子神の天表春命(あめのうわはるのみこと)など、神話に登場する神々をそれぞれに祀っています
地主神として、水と豊作の大神の九頭龍大神を祀っています
この世の生き物にとって欠かすことこのできない水。それは戸隠信仰の始まりであるとも言われています
古来、天台密教が伝播するにおよび、神仏習合の顕光寺が創建され、戸隠信仰は修験道とも習合し、この霊地は日本全国に名をはせることになりました
明治初年の神仏分離令により、神仏一体の戸隠信仰は、神道か仏教かの選択を迫られる状況に直面しました
戸隠信仰の源流は、古代人の山への信仰にありますが、仏教的なものは一掃され、神社神道として歩むことになりました
平安時代後期以降、天台密教や真言密教と神道とが習合した神仏混淆の、戸隠山 勧修院 顕光寺として全国にその名を知られ、修験道場戸隠十三谷三千坊として比叡山(延暦寺)、高野山(金剛峯寺)と共に「三千坊三山」と呼ばれるほど多くの修験者や参詣者を集めた
平安末期には、霊場としての戸隠は京の都でもよく知られていたらしく、『梁塵秘抄』には「四方の霊験所は、伊豆の走湯、信濃の戸隠、駿河の富士山、伯耆の大山…」とうたわれるまでになっていた
宝光社
20台ほどの駐車場は、満車状態だ
中社の祭神である天八意思兼命の子、天表春命(あめのうわはるのみこと)を祀り、学問、技芸、裁縫、安産、婦女子の神とされる
杉の古木の中、鳥居から193段の石段を登ると、神仏習合時代の面影を残す荘厳な社殿がある
後冷泉天皇の御世である康平元年(1058年)8月26日、奥院より五十町ほど離れた大木の梢に光を放って輝くものがありました。
人々が不思議に思い集まって、よく見てみたところ、それは「御正体」(神仏習合の考えによって神体である鏡に本地仏の像を示した鏡像のこと)でした。
その時そばにいた12~3歳の女の子がもだえ苦しみ、倒れてしまったので、人々が「どうしたものか」と騒いでいると、女の子はこういいました。
「私は当山三所権現の先駆けで左方に立つ地蔵権現です。本院は女人禁制の結界があり、女人は中に入ることができません。従って本院に行けない女人のために、ここに堂を建てて、私を安置してください。」
その場にいた人々は怪しんで「それが本当なら、ここにいる誰かの袖にお移りください」と言うと、「御正体」はそこにいたお坊さんの袖の中に飛び移りました。
お坊さんが慌てて袖の中を確かめてみると、地蔵菩薩像が入っていました。
そこで人々は女の子の言うことを信じ、すぐに堂を建てて地蔵菩薩像を安置しました。
堂ははじめ「福岡院」と呼ばれ、後に「宝光院」といわれるようになりました。また「御正体」がやってきたところを「伏拝所」というようになりました。
石段途中より、大鳥居と参道を望む
お坊さんの袖の中に飛び込んだ地蔵菩薩が、垂迹(すいじゃく)、つまり日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるり、「天表春命」であるとされるようなったそうです。
社殿は、戸隠神社五社で最も古く、文久元年(1861)に創建されたもの
神仏習合時代の面影を残す寺院建築の様式を取り入れた権現造りで、拝殿周りは宮彫師北村喜代松の彫刻による龍・鳳凰・麒麟・唐獅子牡丹・象の木鼻・十二支などで飾られている

ツリフネソウ
ウワバミソウの実
石段の東側に、摂社が二つある


火之御子社(ひのみこしゃ)
承徳二年(1098)頃の創建で、岩屋の中にお隠れになった天照大神(あまてらすおおのかみ)を誘い出す舞を踊った女神である天鈿女命(あめのうずめのみこと)が主祭神
「火之御子」は「日御子」とも考えられることから、天照大神の御子神である天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が祭神とされ、天忍穂耳命の妻の、栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)と、栲幡千々姫命の父である、高皇産御霊命(たかみむすびのみこと)が配祀される
樹齢500年を超える『夫婦の杉(二本杉)』と有名な西行桜があります
戸隠山の神様が神仏習合の当時も、このお社だけは神社として終始しており、戸隠神社太々神楽は、この神社に仕えていた社人によって古来より伝えられ現在に至っている。舞楽芸能の神、縁結びの神、火防の神として尊崇されています


いったん神社巡りを中断して、宝光社のすぐ下から鏡池を目指す
戸隠連峰が見えてきた
ミゾソバと思ってしまったが、アキノウナギツカミだったかも
これも、ノコンギクかユウガギクか
シロヨメナ?ゴマナ?
ハナタデ?
鏡池の湿地帯も、よく見るといろいろな発見がありそう
トリカブトでしょう
イヤリトリカブト(居谷里鳥兜、Aconitum japonicum Thunb. subsp. maritimum (Tamura et Namba) Kadota var. iyariense Kadota、キンポウゲ科トリカブト属の疑似一年草、有毒植物)
長野県北部の特産で、湿地や渓流の流れに沿って生育する。環境省(2020年)の絶滅危惧IA類、長野県(2014年)の絶滅危惧IA類
シラカバ

マユミ(檀、真弓、檀弓、ヤマニシキギ(山錦木)、カンサイマユミ、オオバマユミ、エゾオオバマユミ、Euonymus sieboldianus var. sieboldianus、ニシキギ科ニシキギ属の低木)
サラシナショウマ



天命稲荷神社
主祭神は、宇迦之御魂大神
戸隠公明院の姫野公明師がお告げにより、この地に斎祀された神社
新緑や紅葉シーズンには、混みあうんだろうな
鏡池に戻ってきました
雲も上がり、陽が差してきました

そして鏡池に映り込む、戸隠連峰の美しいこと


多くの人がピクニックをしていました
我々も、昼食に向かいましょう
山岳修験者の携帯食としてそば粉が珍重されたことに始まる、戸隠そば
その後、遠来の賓客や戸隠講の人々に振る舞うおもてなし料理として広がったそうです
中社周辺の「しなの屋」さんに、ふらっとお邪魔した
お通しで、みたらしそば団子を出してくれるが、これが美味い
一口サイズに束ねて出すのが、戸隠そばの作法です
一口いただいて感じたのは、「ロッジで食べた蕎麦は、戸隠そばだった」ということ
天おろしそばは、天ぷらも上手に揚がっており、辛めのおろしもそばに合う
蕎麦の腰があるのに、さっぱりしたのど越し、透明感のある味は、栃木のそれとは全然異なるが、どちらも好い
食後は中社をお参りする
西側駐車場から入った手水舎では、戸隠の湧き水で飲水可です
「戸隠山顕光寺流記」によると、宝光社が創建されて30余年後の寛治元年(1087)、当時の別当が「もともと当院は三院であるべき」との夢を見て、奥院(現在の奥社)と宝光院(現在の宝光社)の中間に位置するこの地に中院(現在の中社(ちゅうしゃ))を創建したという


樹齢700年を超えるご神木、樹齢800年を超える三本杉があり、戸隠神社の社務所が置かれています


中社

素戔嗚尊の度重なる非行に天照大神が天岩戸にお隠れになった時、岩戸神楽(太々神楽)を創案し、岩戸を開くきっかけを作られた神、天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)を祀る
社殿は寛治元年(1087)に創建された後、何度か建て直されています。
嘉永5年(1852)に造営された社殿が昭和17年まで残っていたのですが、昭和17年に発生した火災で焼失してしまいまい、昭和31年に再建された社殿が現在の社殿です


社殿天井には平成15年に復元された狩野派の天才絵師、河鍋暁斎によって描かれた「龍の天井絵」があります
オリジナルは昭和17年の火災で焼失してしまい、現在の拝殿天井には絵葉書をもとに復元された絵が描かれています
中社から奥社の駐車場へ移動しました
大鳥居からの参道は約2キロ

大鳥居からすぐの左手に一龕龍王祠(いっかんりゅうおうし)
オオシラヒゲソウ(大白髭草、Parnassia foliosa Hook.f. et Thomson var. japonica (Nakai) Ohwi、ウメバチソウ科ウメバチソウ属の多年草)
この場所は群生地として有名なようだ

右手にミズナラ大王という大木があるが、冬季しか行かれないようだ
現存する戸隠神社の建築物で最も古い(宝永七年(1710)に建造)と言われる随神門
随神門をくぐると右手に奥社院坊跡、その先右手に奥社院坊跡(講堂跡)
随神門はかつての神仏習合の時代は仁王門であり、仁王像が祀られていましたが、この仁王像は明治維新の神仏分離に際に、善光寺の隣にある寛慶寺に移されました
随神門から約500メートル続く樹齢400年を数えるクマスギの並木
木の勢いは現在も衰えることなく参道の神性を保っています
立冬と立春には太陽が参道に沿って真正面から昇ってきます

この参道杉並木を含む戸隠神社奥社社叢は長野県の史跡・天然記念物に指定されています。
スギの他、ハルニレ、シナノキ、ブナ、トチ、オオヤマザクラ、ハンノキ、ミズナラなどの落葉樹、モミ、イチイ、ウラジロなど針葉樹からなる154,000坪に及ぶ広大な自然林です

ウワバミソウの実
ムカゴイラクサ(珠芽刺草、Laportea bulbifera、イラクサ科ムカゴイラクサ属の多年草)

この自然の森は過去数回、最初は朝鮮出兵から無事帰国した上杉景勝が、戦国の争乱で荒廃した戸隠を復興した1594年ごろ。次に徳川幕藩体制が確立していく慶長の時期、1612年ごろ。さらに松本藩主水野忠清が整備した寛永20年(1643)ごろの契機を経て整えられてきたと思われます
寛永20年(1643)、徳川家康の側近であった天海が発給した「越後・信濃両国天台宗法度条々」によって境内竹木の伐採が厳禁とされたことから、400年近く開発や破壊から守られてきました
平成22年秋に放映された、吉永小百合さんのテレビコマーシャルの舞台として知られます
この穴が吉永小百合さんが顔を出す穴で、「小百合杉」と呼ばれているそうです
昭和48年「古い時代のまま保存されている」として「戸隠神社奥社社叢(しゃそう)」が長野県の天然記念物に指定されました。保存の条件として、林床(森林の中の地表面)に立ち入らないように求めています
戸隠山の手前にある飯綱山の神、飯綱大権現(いいづなだいごんげん)を祀った飯綱社

多くの人の踏圧とうあつにより、根が成長しない、新たな根が生えにくい、という樹勢への影響があるそうです

大岩を傘にして、数体のきれいなお顔の石仏さま
八水神の滝

奥社手前の手水舎
ここから左が九頭龍社、右上が奥社です

九頭龍社
神殿は拝殿右奥から90度曲がり、戸隠三十三窟のうちの龍窟(第二十四窟)へ入ってゆきます
天手力雄命が奉斎される以前に地主神として奉斎された、九頭龍大神(くずりゅうのおおかみ)
心願成就の御神徳高く特別なる信仰を集め、また古来より水の神、雨乞いの神、虫歯の神、縁結びの神として尊信されています


奥社
三十三窟のうち、第一窟の前に奥社があります
日本神話にある、天照大神が天の岩屋にお隠れになった時、無双の神力をもって、天の岩戸を開き、天照大神をお導きになった天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)を戸隠山の麓に奉斎した事に始まります

奥社(おくしゃ)社殿は幾度となく雪崩で崩壊(近世以降でも明治2年、昭和11年、37年、53年の雪崩により崩壊)し、現在の社殿は昭和54年(1979)に建て替えられ、雪崩にも負けないようにコンクリート造りとなっているそうです

五社すべてを参拝すると、記念のしおりがいただけます
来た道を戻っていきます

法燈国師母公祈願(ほっとうこくしぼこうきがん)観音堂(かんんのんどう)跡と宝篋印塔(ほうきょういんとう)へと続く入口

オオウバユリの実

3日間お疲れの、蕎麦アイス
お天気が良くて、よかったあ
戸隠から長野へは、ナビに従い105号線(bird line)で下ったが、とんでもない狭路曲路なので、次来ることがあっても、絶対に使わないな

トイレ休憩を兼ねて立ち寄った川中島古戦場跡
川中島古戦場八幡社
平安時代中期(1087~1093)、信濃の国に流された村上顕清が、この地を訪れ武運長久の神「八幡大神」をお祀りされた事が初まりとされています。又、この辺り一帯の広原を神の御名に因んで八幡原​(はちまんぱら)と名付けられました。
戦国時代の永禄4年(1561)9月10日の川中島の戦いでは、八幡大神を崇敬する武田信玄が当社に陣を構え、境内は上杉謙信との一騎討ちの地となりました
御祭神は、誉田別尊(ほんだわけのみこと)、建御名方命(たけみなかたのみこと)

武田信玄と上杉謙信の一騎討ち像に夕日が当たる
ここを5時少しに出発し、中秋の名月を眺めながら上信越道を走り、横川SAで釜めしを食べたのに、8時半には家についてしまった
長野なんか、近いじゃん