2023/9/27
日本百名城27番、日本夜景遺産に認定されている、長野県上田市の上田城跡へ
北に太郎山、南に千曲川があり、千曲川の分流である尼ヶ淵に面していたので、築城当初は「尼ヶ淵城」と呼ばれることもあった
イヌホオズキの花と実
尼ヶ淵にある駐車場から二の堀を東へ回りこむ
ケヤキ並木の二の堀は、昭和3年から47年まで、上田温電北東線の電車が走っていたそうです
東の二の丸橋を渡り、入城する
上田を含む信濃国は、武田勝頼~織田信長の後、天正壬午の乱と呼ばれる争奪戦が行われ、旧武田領国をめぐり、相模の後北条氏(北条氏政・北条氏直)、駿河の徳川家康、越後の上杉景勝が争い、そこに武田氏の傘下に入っていた木曽氏や真田氏らの国衆、旧信濃守護の小笠原氏などの動きが絡んで争乱となった
天正10年(1582)6月の本能寺の変の後、10月になって織田体制の織田信雄・織田信孝や、羽柴秀吉から和睦の勧告があり、
尼ヶ淵にある駐車場から二の堀を東へ回りこむ
ケヤキ並木の二の堀は、昭和3年から47年まで、上田温電北東線の電車が走っていたそうです
東の二の丸橋を渡り、入城する
上田を含む信濃国は、武田勝頼~織田信長の後、天正壬午の乱と呼ばれる争奪戦が行われ、旧武田領国をめぐり、相模の後北条氏(北条氏政・北条氏直)、駿河の徳川家康、越後の上杉景勝が争い、そこに武田氏の傘下に入っていた木曽氏や真田氏らの国衆、旧信濃守護の小笠原氏などの動きが絡んで争乱となった
天正10年(1582)6月の本能寺の変の後、10月になって織田体制の織田信雄・織田信孝や、羽柴秀吉から和睦の勧告があり、
- 北条氏直に徳川家康の娘督姫を娶らせる
- 甲斐・信濃は家康に、上野は北条にそれぞれ切り取り次第とし、相互に干渉しない
という条件で講和が結ばれた
しかし、上野・沼田領の帰属問題では、真田氏が上杉氏と結んで徳川氏と対立、信濃国小県郡及び上野国吾妻郡・同国利根郡を支配し、上田合戦に発展した天正13年(1585)には、家康が甲斐へ着陣して昌幸に沼田領の北条氏への引き渡しを求めるが、昌幸は徳川氏から与えられた領地ではないことを理由にして拒否し、さらに敵対関係にあった上杉氏と通じた
同年7月、浜松に帰還した家康は昌幸の造反を知ると8月に真田討伐を起こし、家臣の鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約7000の兵を真田氏の本拠・上田城に派遣する
東虎口櫓門右手の石垣にある高さ約2.5m・幅約3mの大石は、真田石と名付けられている
この合戦によって徳川家康の真田氏に対する評価は高まり、結果として本多忠勝の娘である小松姫を真田信幸へ嫁がせて懐柔化させることとなる
この合戦によって徳川家康の真田氏に対する評価は高まり、結果として本多忠勝の娘である小松姫を真田信幸へ嫁がせて懐柔化させることとなる
本丸跡の南側に、真田神社が作られている
慶長5年(1600)7月24日、上杉景勝を討伐するために会津(福島県)に向かっていた徳川勢は、下野国小山に本陣を置いた時、石田三成挙兵の報が入り、翌25日、急遽家康は本陣に諸将を招集して軍議を開き、反転西上して石田を討つべきと決し、豊臣恩顧大名などの先発隊は東海道を西に進んだが、徳川秀忠以下3万8000人の軍勢は宇都宮に留まり、信濃国平定のため中山道を上田城へ向かった
家康の命で上田城と沼田城(2021/11/21訪問)から上杉討伐に向かっていた真田親子3人は、佐野市犬伏新町で合流し、石田三成挙兵の対応を新町薬師堂(2021/12/20訪問)で協議し、石田方と徳川方に分かれて戦うことを選んだ
慶長5年(1600)7月24日、上杉景勝を討伐するために会津(福島県)に向かっていた徳川勢は、下野国小山に本陣を置いた時、石田三成挙兵の報が入り、翌25日、急遽家康は本陣に諸将を招集して軍議を開き、反転西上して石田を討つべきと決し、豊臣恩顧大名などの先発隊は東海道を西に進んだが、徳川秀忠以下3万8000人の軍勢は宇都宮に留まり、信濃国平定のため中山道を上田城へ向かった
家康の命で上田城と沼田城(2021/11/21訪問)から上杉討伐に向かっていた真田親子3人は、佐野市犬伏新町で合流し、石田三成挙兵の対応を新町薬師堂(2021/12/20訪問)で協議し、石田方と徳川方に分かれて戦うことを選んだ
石田勢に寝返った真田昌幸と信繁(幸村)が、上田城にこもり徳川軍と対峙した第二次上田合戦は、大規模な戦闘があったわけではなく、「九月九日までに美濃赤坂へ着陣すべし」という家康からの指令により、秀忠軍は上田城を攻めることなく、関が原へ向かったようだ
真田昌幸の長男信之は、関ヶ原の戦いで徳川側についたため、上田など真田領を安堵されたが、上田城が破却されていたため上野国沼田城を本城とし、上田城三の丸跡地に屋敷を構えて統治を行った
元和8年(1622)小諸藩より仙石氏が移封され、仙石忠政は破却されたままの上田城の再建を申請し、寛永3年(1626)から現在の上田城が普請されることとなった
元和8年(1622)小諸藩より仙石氏が移封され、仙石忠政は破却されたままの上田城の再建を申請し、寛永3年(1626)から現在の上田城が普請されることとなった
本丸には櫓7棟、櫓門2棟、それらを繋ぐ塀が普請された。現在ある本丸の3棟の櫓(南櫓、北櫓、西櫓)など建物の外壁は煤と柿渋で防水した板を用いた下見板張の黒い外観である
二の丸にも櫓や櫓門を再建するため、櫓台なども構築されたが、寛永5年(1628)仙石忠政の死により工事は中断され、これ以上の増築は行われないまま、仙石氏の転封および松平氏(藤井松平家)に藩主家が交代し、幕末を迎えた真田氏、仙石氏、松平氏という歴代の上田城主を御祭神とするが、もともとは松平家の御先祖をお祀りする御宮であり、松平(しょうへい)神社と称していた
上田城本丸跡の所有者となっていた丸山平八郎氏の篤志により、その南半分の地が境内用地として寄附され、松平神社創立願が長野県より許可されたのは、明治12年(1879)のこと
築城した父昌幸の像ならわかるが、幼少期は上杉や豊臣の下で過ごし、西軍に寝返ったことで紀州高野山に流された幸村の像を、ここに建てたのはなぜだろう?
昭和28年(1953)に真田氏と仙石氏、そして松平氏の歴代全城主を合祀して、松平神社から上田神社と改称された。しかし、かつて市内にあった同名他社と紛らわしいこともあり、初代城主である真田氏の名を冠して、昭和38年に眞田神社と再度改称し今日に至っている
城北の太郎山麓の砦や上田藩主居館(上田高校敷地)に通じていたという伝説が残る真田井戸上田城から見下ろす、上田の市街地
西櫓は寛永3~5年(1626~1628)にかけて仙石氏によって建てられた、上田城で江戸時代から現存している唯一の建物
南櫓・北櫓とともに長野県宝に指定されている
二の丸橋を出て観光会館のレストランでは、ちくわの六文銭かき揚げが名代
我々は城下町だった大手通を東に進み、大泉洋氏絶賛のあんかけ焼そばを求めて、中華料理 檸檬(れもん)へ
店内には大泉洋さんのサイン色紙が4枚も飾られていますが、噂の焼きそばは何のことはない、Hong Kong Style Noodles (港式煎麵)でした
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