9/27/2023

長野旅行2(善光寺)

2023/9/27
長野市元善町の浄土宗の大本山 善光寺 大本願
大本願には、本誓殿・奥書殿・明照殿・表書院・光明閣・寿光殿・宝物殿などがある
大本願は、善光寺の創建(西暦642年)当初からその歴史を共にしてきた尼僧寺院で、代々の大本願住職、尼公上人が善光寺上人として、その伝統を継承されてきた
尼僧では伊勢・慶光院、熱田・誓願寺とともに日本三上人といわれていたが、今日では大本願御上人様のみが法燈を継承されております。大勧進御貫主様と共に善光寺住職を兼ねており、毎朝善光寺本堂で行われるお朝事(あさじ)などの法要の導師を勤める
本誓殿は、平成8年11月に総桧造りの本堂として再建された、大本願の大殿
ご本尊は、善光寺一光三尊阿弥陀如来で、善導大師像、法然上人像をはじめ本田三卿像、歴代お上人の位牌等が安置される
本誓殿では、僧侶たちが集まり、お経を唱えている最中でした
正面向拝の扁額「本誓殿」は久邇宮朝彦親王の御筆、内部の扁額「大本願」は小松宮彰仁親王の御筆だという


本誓殿の向かいにある文殊堂は、平成元年に作られ、
知恵を司る文殊菩薩と、人々の幸せを願う普賢菩薩を祀る

大本願の参道向かいは、堂明坊
仁王門は宝暦2年(1752)に建立されたが、善光寺大地震などにより二度焼失し、大正7年(1918)に山形村永田兵太郎翁の寄進により、高さ約14m間口約13m奥行約7mのケヤキ造りで再建され、善光寺の山号である「定額山【じょうがくざん】」の額が掲げられている
仁王像並びに仁王像背後の三宝荒神・三面大黒天は共に近代彫刻家として著名な高村光雲・米原雲海による作で、右に吽形(総高617.2cm)左に阿形(総高595.1cm)が安置されている
仁王像の裏側には右に三面大黒天(総高367.7cm)左に三宝荒神(総高428.6cm)が安置されている
三面大黒天とは名前の通り三つの顔を持ち、左右に毘沙門天・弁財天、正面に大黒天の顔がある。大黒天は元々ヒンドゥー教の神であり戦闘の神として信仰されていたが、中国に伝わってから財宝の神となり、さらに日本へ伝わった神。日本ではその後、大国主命と習合して、五穀豊饒、商売繁盛、家内安全の神として信仰されている。
三宝荒神とは日本特有の神であり、仏・法・僧の三宝を守護し、不浄を清める神、竈神【かまどしん】、火伏せの神として広く信仰されている。善光寺は幾多の火災に遭っており過去の仁王門も火災で焼失している為、火伏せとして安置されてる。


仁王門をくぐると、仲見世通りである
仲見世通りを東に入ると、善光寺 世尊院の釈迦堂がある
御本尊は、鎌倉時代の作とされる、我が国唯一の等身大(1.66m)の銅造釈迦涅槃像(ねはんぞう)だが、今日はお休み中とのことであった
戦国時代には善光寺の御本尊・御三卿像・御印文と共に全国を流転したそうです

お隣の天台宗 蓮華院にいらした辨財天をお参り
仲見世通りに戻ると、松屋旅館の前にデンと居座る延命地蔵尊
この地は善光寺草創以来、本尊壇があった場所で、延命地蔵は江戸神田恵念、覚念により現本堂落成から5年後の正徳2年(1712)に造立された
弘化4年(1847)の善光寺地震で焼損し、その後復興するも明治24年(1891)に再び焼損、大正4年(1915)に再興されたのもつかの間、戦争により供出され、現在は昭和24年(1949)に復興された地蔵尊が安置されている
境内地入り口から本堂までの、長さ約460m幅約8mに敷かれている石畳は、正徳4年(1714)に江戸中橋の大竹屋平兵衛より寄進されたもので、古来より7,777枚あるといわれているこの石畳は、長野市の文化財に指定されている

山門は、江戸時代中期の寛延三年(1750)に建立
五間三戸二階二重門、屋根は入母屋【いりもや】造りの栩葺【とちぶき】で、国の重要文化財に指定されている
六地蔵は、宝暦9年(1759)に浅草天王町祐昌が願主となって造立されましたが、昭和19年(1944)に軍需物資のための金属供出に出されました。現在の六地蔵は昭和29年(1954)に再興されたものです。六地蔵とは、私たちが輪廻転生するといわれる地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの世界で、我々衆生を救ってくださる菩薩様です。
楼上には輪王寺宮【りんのうじのみや】公澄法親王【こうちょうほっしんのう】筆の「善光寺」畳3畳分の額が掲げられている
これは通称「鳩字の額」と呼ばれており、三文字の中に鳩の姿が五羽隠されているといい、更に「善」の一字が牛の顔に見えると言われている
現在山門に架けられている額は平成大修理の際に作られた二代目であり、先代の額は現在史料館で見ることができる
無宗派 信州善光寺
護持運営は大勧進【だいかんじん】を本坊とする天台宗と、大本願【だいほんがん】を本坊とする浄土宗の両宗派によって行われています
御本尊の一光三尊阿弥陀如来とは一つの光背の中に三尊(中央に阿弥陀如来、両脇に観世音菩薩、勢至菩薩)が配置された様式で「善光寺式阿弥陀三尊像」とも呼ばれます

全国の善光寺リストがあった
武田信玄と上杉謙信が信濃の覇権を巡り、川中島の合戦を繰り広げる最中、弘治元年(1555)、武田信玄は御本尊である一光三尊阿弥陀如来像や多くの什宝【じゅうほう】、寺僧に至るまで、善光寺を組織ごと甲府に移しました
武田家が織田・徳川連合軍に敗れると、御本尊は織田家、徳川家の祀るところとなり、最後は豊臣秀吉が京都・方広寺の御本尊としてお祀りしました
そして、秀吉の死の直前、善光寺如来様がその枕元に立たれ、信濃の地に戻りたい旨をお告げになりました
ようやく慶長3年(1598)、善光寺如来像は四十数年ぶりに信州善光寺にお帰りになられたそうです

本堂は宝永4年(1707)の再建で、江戸時代中期を代表する仏教建築として昭和28年(1953)に国宝に指定された
高さ約29m間口約24m奥行約54mという東日本最大級の国宝木造建築で、衆生の煩悩の数と言われる百八本の柱で造られています。
内部は外陣【げじん】、内陣【ないじん】、内々陣【ないないじん】に分けられており、最奥の瑠璃壇【るりだん】には、御本尊・一光三尊阿弥陀如来をお祀りしています。
本堂内は撮影禁止のため、写真はありません
本堂正面から外陣に入ると最初に目にとまる像がびんずる(賓頭廬)尊者です。お釈迦様の弟子、十六羅漢の一人で、神通力(修行者が得られる超能力に似た力)が大変強い方でした。お釈迦様から人々を救うことを命じられた説話から、いち早く駆けつけられるように外陣にいらっしゃいます。俗に「撫仏【なでぼとけ】」といわれ、病人が自らの患部と同じところを触れることでその神通力にあやかり治していただくという信仰があります。正徳3年(1713)の安置以来300年以上の間人々に撫でられ、今は元のお顔が分からないほど磨り減ったお姿は、人々がそのお力にすがった信仰の証と言えるでしょう。

約150畳敷きの広大な畳の空間が内陣【ないじん】です。
内陣に座ると、目の前には僧侶がお経を読む場である内々陣があり、視線を上に写すと旗鉾【はたぼこ】や華慢【けまん】など、信徒から奉納された装飾具や、来迎二十五菩薩像などを間近に見ることができます。
絶対秘仏である御本尊様のお部屋である瑠璃壇と善光寺を開かれた御三卿【ごさんきょう】の前にそれぞれお焼香台が用意されています。
内々陣を正面に左に弥勒菩薩像【みろくぼさつぞう】、右に地蔵菩薩像【じぞうぼさつぞう】が安置されています。弥勒菩薩は現在天界の中の一つの兜率天【とそつてん】で、天人のために説法されていますが、56億7千万年後にこの世に出現され、悟りをひらいて衆生を導く仏様となることをお釈迦様に予言された菩薩です。この像に関しては阿弥陀如来像の様相が濃くみられますが、残されている古図にも「ミロク」と記載されています。地蔵菩薩は、弥勒菩薩がお悟りを開かれるまでの間、六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人道、天道という六つの迷いの世界)に輪廻して苦しむ衆生をお救いくださる菩薩で、錫杖と宝珠を手にされています。どちらも娑婆世界にいる私たちを救ってくださる菩薩様です。

内々陣の奥、右側を進むとお戒壇巡り【おかいだんめぐり】の入口があります。お戒壇巡りとは、瑠璃壇床下の真っ暗な回廊を巡り、中程に懸かる「極楽の錠前」に触れることで、錠前の真上におられる絶対秘仏の御本尊様と結縁を果たし、極楽往生の約束をいただく道場です。古くは帷子、草履に白木の念珠といった棺に入る際の姿になり、念仏を唱えながら巡ったと言われます。真っ暗の世界は死後の世界を表しており、49日の魂の旅の途中で仏と出会いお浄土の光を見つける「生まれ変わりの疑似体験」なのです。全国各地の善光寺にも形や長さは違いますがお戒壇巡りがあります。

『善光寺縁起』によれば、御本尊の一光三尊阿弥陀如来は、インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、欽明天皇十三年(552)、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれております。この仏像は、仏教という新しい宗教を受け入れるか否かを巡る崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられました。その後、信濃国国司の従者として都に上った本田善光【ほんだよしみつ】が信濃の国へとお連れし、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、後に皇極天皇元年(642)現在の地に遷座されました。皇極天皇三年(644)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられました。

経蔵【きょうぞう】は、宝暦9年(1759)に建立された五間四方宝形【ほうぎょう】造りのお堂です。


経蔵入口には輪蔵を考案した傅大士【ふだいし】の像があります。その他にも、経蔵内には伝教【でんぎょう】・慈覚【じかく】の両大師像などが祀られています。
内部中央には八角の輪蔵【りんぞう】があり、その中には仏教経典を網羅した鉄眼黄檗版【てつげんおうばくばん】『一切経【いっさいきょう】』全6,771巻が収められています
高さ約6m重さ約5t奥行約4mの巨大な輪蔵を時計回りに一周押し回すと、収められた『一切経』を全て読んだことと同じ功徳【くどく】が得られるといわれています。
昭和49年(1974)に江戸時代を代表する経蔵建築として重要文化財に指定されました
楼門上部には、山門の本尊である文殊菩薩騎獅像と四方を守護する四天王像をはじめ、色鮮やかに修復された仏間の障壁画、四国八十八ヶ所霊場分身仏などが安置されています。
壁面には墨字で書かれた落書きが多く残されています。これは江戸期から昭和初期までの間に登楼された参拝者が自らの名前を残したものです。
中には「島津藩の家紋と共に書かれた桜島と思われる山の絵」や浅野家の後に赤穂を治めた「赤穂藩森家家中の名前」や会津討伐の後に立ち寄ったと思われる「長州奇兵隊」といった記載も見られます。
江戸幕府開府に伴い、徳川家康より寺領千石の寄進を受け、次第に復興を遂げ、「一生に一度は善光寺参り」と多くの人々が参拝しました
念仏を唱えて一心に祈る者は性別・身分を問わず、誰であっても極楽浄土に導いて下さると、一貫して無差別平等の救済を説く寺院として知られていました
そのため、女性の参拝者が多いことが善光寺参りの特徴でした。当時の参拝の様子を描いた絵馬にも、女性の信者の姿が数多く描かれているそうです

鐘楼【しょうろう】は嘉永六年(1853)に再建された。南無阿弥陀仏の六字にちなみ、六本の柱で建てられています。屋根は大正15年(1926)に瓦葺から檜皮葺へと変更されております。梵鐘は建物よりも古く、寛永9年(1632)高橋白蓮により発願鋳造されましたが、寛永19年(1642)の火災により焼失、寛文7年(1667)に再造立された名鐘であり重要美術品に指定されています。毎日午前10時から午後4時の毎正時に時を知らせる鐘として親しまれています。更に長野オリンピックでは開会を告げた鐘として有名になりました。
山門の南西にある大勧進へ渡る橋は、蓮池に架かっている



蓮池から山門を見る
善光寺の天台宗を束ねる大勧進【だいかんじん】
大勧進の住職は御貫主【おかんす】様と呼ばれ、大本願の御上人【おしょうにん】様と共に善光寺住職を兼ねています。貫主は代々比叡山延暦寺より推挙される慣習になっており、毎朝善光寺本堂で行われるお朝事などの法要の導師を勤めます。

大勧進には本堂の万善堂の他、無量寿殿・不動堂・地蔵八角円堂・紫雲閣・宝物館・僧侶が修行をする聖天堂などがあります。
夕方4時を回り、店じまいが始まっています



寺子屋本舗のぬれおかき、焦がしくるみ味噌と、レモネードで休憩
仁王門の間から山門越しに本堂まで見える

西之門 よしのやさんでお土産を買い、3時間無料の駐車券をいただく


善光寺から約1時間のドライブで、本日のお宿「星と緑のロマン館」
本日の宿泊客は、我々二人だけ
お風呂も食事も独占です



食事はおいしく、部屋も広く、これで一人1泊9000円以下は、ないでしょ!
2023/9/28
朝食



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