2023/9/28
小川村から小布施町へと向かう途中、長野電鉄の電車に出会う
平日朝の10時だというのに、紅葉シーズン前だというのに、小布施の繁華街は老若男女(主に老女)であふれており、一番遠い駐車場まで流れてきた
創業明治26年(1893)という老舗栗菓子の竹風堂さん小布施本店に、待たずに入店
こんなものが「本日の残りあとわずか」と言われれば、いただかないわけがありません
窓の外はこの景色ですし
そして栗小餅
平日朝の10時だというのに、紅葉シーズン前だというのに、小布施の繁華街は老若男女(主に老女)であふれており、一番遠い駐車場まで流れてきた
栗の小径と呼ばれる、栗の間伐材を敷き詰めた小道で、足裏の感触が独特で景観も印象的
昼食が込み合うのは見えていたので、開店に合わせて先ずは昼食創業明治26年(1893)という老舗栗菓子の竹風堂さん小布施本店に、待たずに入店
こんなものが「本日の残りあとわずか」と言われれば、いただかないわけがありません
窓の外はこの景色ですし
小布施で秋のごはんといえば、これでしょう
ひとりづつでは多いと思い、私はところてん、これがまた・・・そして栗小餅
半つきの餅米に栗餡を乗せ、その上に新栗の裏漉しをモンブラン風に絞った、今だけのお菓子
竹風堂の向かいのオブジェ
小布施の目的その2は、北斎館
その1は、栗ご飯でした
現在の企画展は、販売目的ではなく、旦那衆の趣味で特注した木版画「摺物」
館内は一部撮影可能でした
前半に15分の北斎の生きざま、後半も15分の北斎と小布施のつながり、の動画を鑑賞し、1時間以上かけて、ゆっくりと作品鑑賞ができました
竹風堂の向かいのオブジェ
小布施の目的その2は、北斎館
その1は、栗ご飯でした
現在の企画展は、販売目的ではなく、旦那衆の趣味で特注した木版画「摺物」
館内は一部撮影可能でした
前半に15分の北斎の生きざま、後半も15分の北斎と小布施のつながり、の動画を鑑賞し、1時間以上かけて、ゆっくりと作品鑑賞ができました
続いて、高井鴻山記念館
信濃国高井郡小布施村(幕府領・松代藩)の豪農商、高井家十代目の四男として、文化3年(1806)に生まれた高井鴻山(こうざん)
天保13年(1842)の秋、北斎83歳のとき初めて小布施の鴻山(時に37歳)のもとを訪れた
信濃国高井郡小布施村(幕府領・松代藩)の豪農商、高井家十代目の四男として、文化3年(1806)に生まれた高井鴻山(こうざん)
天保13年(1842)の秋、北斎83歳のとき初めて小布施の鴻山(時に37歳)のもとを訪れた
鴻山は北斎の卓越した画才を見抜き、自宅に碧漪軒(へきいけん)というアトリエを建てて厚遇し、北斎に入門。北斎はこの時、一年余りも鴻山邸に滞在したという
鴻山は北斎を「先生」と呼び、北斎は、鴻山のことを「旦那様」と呼び合った
弘化5年(1848)、北斎(89歳)は四度目の小布施来訪時、岩松院の天井絵を完成させている(完成に至っていないという説が、後出)
絵画としての鴻山については、花鳥画や山水画、人物画を得意としていたが、特筆すべきは、晩年の北斎の影響が大きい妖怪画の数々である
絵画としての鴻山については、花鳥画や山水画、人物画を得意としていたが、特筆すべきは、晩年の北斎の影響が大きい妖怪画の数々である
但し金銭面は弟に任せきりで、金儲けの丁稚仕事には手を出さず、事業家としては無能であり、京や江戸では勉学の傍ら、花柳界で金持ちよ御曹司よと乱痴気騒ぎをし、自ら「放蕩宗」と称して多くの友人を作っていったといわれる
葛飾北斎の自画像か、鴻山作か?
北斎の下絵を鴻山が書き上げたといわれる「像と唐人図」
伊藤若冲作「鶏百態図」
狩野探幽作と伝わる「四季鶴」
外は雨が降り出していた
小布施堂本店は、栗の点心朱雀の当日配布分を待つ長蛇の列が、写真左裏手に第1グループ、右側に第2グループ
葛飾北斎の自画像か、鴻山作か?
北斎の下絵を鴻山が書き上げたといわれる「像と唐人図」
伊藤若冲作「鶏百態図」
狩野探幽作と伝わる「四季鶴」
外は雨が降り出していた
小布施堂本店は、栗の点心朱雀の当日配布分を待つ長蛇の列が、写真左裏手に第1グループ、右側に第2グループ
二口飲みは、山田錦を40%まで磨いた、大吟醸生酒「鴻山」
比較のため、純米酒の「州」と「ろく」もいただきましたが、残念なお味でした
自分用に「鴻山」をいただいてきました
カウンターの女性に、小布施のうまいものを尋ねると「やきぐり」と帰ってきたので、桜井甘精堂前のやきぐり販売所に行ってみたが、並ぶのは嫌いです
小布施の目的その3は、小布施町雁田の曹洞宗 梅洞山 岩松院(がんしょういん)
福島正則とは、豊臣秀吉の母(のちの大政所)の妹を母に持つ、戦国武将
比較のため、純米酒の「州」と「ろく」もいただきましたが、残念なお味でした
自分用に「鴻山」をいただいてきました
カウンターの女性に、小布施のうまいものを尋ねると「やきぐり」と帰ってきたので、桜井甘精堂前のやきぐり販売所に行ってみたが、並ぶのは嫌いです
小布施の目的その3は、小布施町雁田の曹洞宗 梅洞山 岩松院(がんしょういん)
福島正則とは、豊臣秀吉の母(のちの大政所)の妹を母に持つ、戦国武将
広島藩(50万石)の藩主だったが、台風による水害で破壊された広島城の本丸・二の丸・三の丸及び石垣等を無断修繕したことが武家諸法度違反に問われ、信濃国高井郡と越後国魚沼郡の4万5,000石(高井野藩)に減転封の命令を受け移封後、検地と新田開発を奨励したそうだが、どうもあまり褒められた人格ではなかったとの逸話も多い
仁王門の立像は、目がユニーク
本堂は外壁修繕中だが、中にお邪魔する
堂内は撮影禁止
本尊は釈迦如来
「やせ蛙 負けるな一茶 是にあり」を詠んだ「蛙合戦の池」と、小林一茶直筆の句碑がある
これを目指してやってきた「八方睨み鳳凰図」
本堂は外壁修繕中だが、中にお邪魔する
堂内は撮影禁止
本尊は釈迦如来
「やせ蛙 負けるな一茶 是にあり」を詠んだ「蛙合戦の池」と、小林一茶直筆の句碑がある
これを目指してやってきた「八方睨み鳳凰図」
案内人(住職か?)が天井画の説明をしてくれるのだが、我々はオーストラリアから来た二人とカメラマン風の男性の、たったの5人で自由に見学でき、個人的なめっけも
このBlogを読む人は限られているだろうから書いちゃうけど、北斎4度目の小布施入りの際に描かれたものだが、2回目以降は三女の応為(おうい、おえい、えいじょ)が同行しており、よわい90になろうとする北斎は、どれだけ自分で描いたのか?
このBlogを読む人は限られているだろうから書いちゃうけど、北斎4度目の小布施入りの際に描かれたものだが、2回目以降は三女の応為(おうい、おえい、えいじょ)が同行しており、よわい90になろうとする北斎は、どれだけ自分で描いたのか?
ただ鳳凰の顔は北斎だろうとか、赤は応為じゃないかとか
高井鴻山が加わっていた可能性も高く、北斎は鳳凰図の完成を待たずに江戸に帰ってしまい、落款(落成款識の略で、作者が署名・捺印すること)も見当たらず、北斎の絵だとの認定ができないそうで、文化財にもならないだろう、とのことでした。あくまで個人的めっけ
山道を1時間、標高1,000mまで帰ってきました
今夜はキノコ尽くし
山道を1時間、標高1,000mまで帰ってきました
今夜はキノコ尽くし
お酒は大町の薄井商店 白馬錦 雪どけ吟醸、信濃大町産美山錦を49%まで磨いた吟醸酒
夕食はご飯の代わりに信州そばで、昨晩は冷やしかけそば、今晩は温かなかけそば
小川村の製麺所の蕎麦だというが、さっぱりとした蕎麦は、栃木のそれとは明らかに異なるのだが、どちらもとても美味しい
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