2025/10/25 (Sat)
週末は雨予報のため山行きはやめ、福島県東白川郡棚倉町へ
JA東西しらかわ 「みりょく満点物語」では秋まつりを開催中で、お味噌ひとすくい500円イベントに並ぶ人たち
ひゃもじひとすくいの量を増やそうと、一人一人が真剣に時間をかけているため、行列は全く進まない
JA内の旬彩レストラン「山ぼうし」で昼食地元産の新鮮な野菜を使用した料理が売りで、なかなか美味しい
食後は、初めての棚倉(たなぐら)町を散策
最初は、棚倉町八槻にある都々古別(つつこわけ、都都古和氣)三社の一社で、「近津三社」(馬場都々古別神社・八槻都々古別神社・下宮近津神社)の“中宮"にあたる、八槻都々古別神社(奥州一宮)
第12代景行天皇の時(西暦100年頃)、皇子の日本武尊が東征で奥羽に至り、八溝山の東夷を討った際、守護した3神が建鉾山(福島県白河市表郷三森)に隠れたので、日本武尊は東方に箭(矢)を放ち、箭の着いた地(箭津幾:やつき、神亀3年(726)に「八槻」に改め)に、神社を創建したと、陸奥国一宮近津大明神縁起および似た話が陸奥国風土記逸文に残る古社で、延喜式式内社(名神大社)論社、陸奥国一宮、旧社格は国幣中社だ
福島県南部の浅川町福貴作で「福貴作石」(凝灰岩)と呼ばれる、細工がしやすく、きめ細かで摩耗しにくい良質な石に出会った江戸~明治の石工 小松利平がこの地に住み着き、獅子や石仏作りを行い、後輩を育成したため、福島県南地方は狛犬の「聖地」と呼ばれるほど、日本国内でもめずらしい独特の狛犬、飛翔獅子(ひしょうしし)型や獅子山(ししやま)型など独特な狛犬が多数存在しているという
ここの吽の狛犬は、尾が太く、子供を抱いているようだ
当時、藩主阿部正静が白河に出兵しており、棚倉城は正静の父正外と僅かな城兵が守るのみであったため、阿部正外は城を放火(自焼)して分領である保原に撤退、わずか1日で落城した
今年は築城からちょうど400年目で、盛大な催しが行われているようだ
堀の内外に植えられた約270本の桜(ソメイヨシノ・シダレザクラ)が咲きほころぶという
正面から見ると、眼が怖い
阿の狛犬は球を持ち、趣向を凝らした猫足に支えられた台座にのっている石工は、留蔵と力蔵と分かっているそうだ
随身門は、寛政2年(1790)の「近津明神別当大善院由緒書」の記載によれば、正徳元年(1711)に焼失した後、享保年間(1716~36)に再建されたとみられる県指定重要文化財
本殿と比較すると、ほぼ同様の様式細部を有しているが、やや技巧的に進んだ感があり、本殿に引き続いて造営されたと考えられている
典型的な八脚門形式で、全体の比例もよく、彫刻や彩色などの装飾も細部までまとまり、頭貫木鼻は獅子、象、虎、獏、麒麟などの具象的な彫物
蟇股(かえるまた)の彫物は蛸や鯛、松竹梅、人参、瓜、琵琶、波濤、牡丹など実に多彩
右大臣左大臣の背面の拝殿側には、狛犬が一対納められており、狛犬が屋内から野外へ設置される途中の状態だという(写真撮ればよかった)
国や地域で最も格式の高いとされる神社に与えられる「一宮」は、平安時代以降、朝廷や国司が指定したものではなく、諸国で最も由緒が深く信仰を集めた神社が自然と序列の最上位にあたる「一宮」となり、奥州では、宮城県塩竈市の塩竈神社、福島県福島市の馬場都々古別神社と、八槻都々古別神社の三社だ室町末期から江戸初期に当地を治世した佐竹氏により社殿群が充実されたが、正徳元年(1711)に焼失し、現在の社殿群は享保年間(1716~36)に再建されたもの
近世は神仏習合の色濃い社頭景観を構成しており、寛政2年(1790)の資料からは神輿殿や鐘楼、観音堂があったが、明治初期の神仏分離によって仏教色が一掃された結果、現在の境内構成となったようだ
源義家が奥州征伐に訪れた際に「千勝(近津)大明神」と改称したと伝わる
源義家が奥州征伐に訪れた際に「千勝(近津)大明神」と改称したと伝わる
本殿は、正徳元年(1711)に焼失し、享保年間(1716~36)に再建された
形式は基本的に三間社流造を基調としながら、奥行きを通例より長くとるといった独創性が見られ、彫刻などの細部装飾も華やかなつくりで、再建当初の姿をとどめている
福島県内の本殿建築の中でも江戸時代中期を代表する本殿建築で、県指定重要文化財
拝殿より大きく立派な本殿には、この地を平定した日本武尊(ヤマトタケル)と、スサノオの娘で宗像三女神の一神タキリビメとオオクニヌシとの子、味耜高彦根命(アヂスキタカヒコネ)を祀るアヂスキタカヒコネを主祭神とする神社は、全国的にも多くは無いが、日光の太郎山がその一つだ
栃木県からは、栃木市、足利市、佐野市があがっているので、そんな感じかな
樹齢は640年で、城よりも240年も古い
大名行列の通過後だったので、すんなりと駐車できた
別名を亀ヶ城といい、濠に大亀が棲んでおり、浮かび上がって姿を見せると決まって殿様が転封になるという言い伝えによるという
棚倉城は、本丸を中心に二の丸が周りを取り囲み、さらに二の丸の北部から西部にカギ型の三の丸が配置される、輪郭・梯郭複合式の平城
元和8年(1622)に棚倉藩に5万石で入封した丹羽長重は、それまでの赤館を避け棚倉盆地の中央にあった都都古別神社(近津明神)を馬場の地に遷宮し、その跡地に江戸幕府の許可を得て、棚倉城を寛永2年(1625)に築城した
観光資料を見ていて、丁度今日は大名行列の日で、棚倉城跡がゴールと知り、行ってみるた
南虎口の大手門前の大ケヤキ樹齢は640年で、城よりも240年も古い
大名行列の通過後だったので、すんなりと駐車できた
別名を亀ヶ城といい、濠に大亀が棲んでおり、浮かび上がって姿を見せると決まって殿様が転封になるという言い伝えによるという
棚倉城は、本丸を中心に二の丸が周りを取り囲み、さらに二の丸の北部から西部にカギ型の三の丸が配置される、輪郭・梯郭複合式の平城
元和8年(1622)に棚倉藩に5万石で入封した丹羽長重は、それまでの赤館を避け棚倉盆地の中央にあった都都古別神社(近津明神)を馬場の地に遷宮し、その跡地に江戸幕府の許可を得て、棚倉城を寛永2年(1625)に築城した
その後、城主は徳川譜代・親藩の家柄が入れ替わり、8家16代の城主交代があり、最終的には慶応2年(1866)に阿部正静が6万石で入封した
慶応4年(1868)に勃発した戊辰戦争では、官軍側は白河大統寺の住職・賢邦を使者として恭順を勧めたが、棚倉藩が拒絶した為、板垣退助の率いる新政府軍800名の攻撃を受けた当時、藩主阿部正静が白河に出兵しており、棚倉城は正静の父正外と僅かな城兵が守るのみであったため、阿部正外は城を放火(自焼)して分領である保原に撤退、わずか1日で落城した
今年は築城からちょうど400年目で、盛大な催しが行われているようだ
堀の内外に植えられた約270本の桜(ソメイヨシノ・シダレザクラ)が咲きほころぶという
棚倉城を築城するため、寛永元年(1624)に藩主丹羽長重により遷宮した馬場都々古別神社
「東夷」を鎮定した日本武尊(ヤマトタケル)が、初め建鉾山(白河市)に鉾を祭り、のちに大同二年(807)坂上田村麻呂が近世棚倉城に社殿を造営し、日本武尊を相殿に配祀したと伝わり、寛永元年(1624)棚倉町馬場に落ちついた先の八槻都々古別神社と同じく、都々古別三社の一社で、江戸時代頃には「近津三社」(馬場都々古別神社・八槻都々古別神社・下宮近津神社)の“上宮”にあたる
随身門
八槻と同じく、陸奥国白河郡の式内社(名神大社)論社で、陸奥国一宮、旧社格は国幣中社
日本武尊が奥羽に至り、都々古山(福島県白河市表郷三森の建鉾山、現在は武鉾山)に鉾を立て、地主神として、味耜高彦根命(アヂスキタカヒコネ)を祀り、建鉾山からお隣の棚倉への引っ越しに伴い、大同2年(807)に日本武尊(ヤマトタケル)を合祀した
随身門
八槻と同じく、陸奥国白河郡の式内社(名神大社)論社で、陸奥国一宮、旧社格は国幣中社
日本武尊が奥羽に至り、都々古山(福島県白河市表郷三森の建鉾山、現在は武鉾山)に鉾を立て、地主神として、味耜高彦根命(アヂスキタカヒコネ)を祀り、建鉾山からお隣の棚倉への引っ越しに伴い、大同2年(807)に日本武尊(ヤマトタケル)を合祀した
都々古山が始まりで、地域ごとに分祀したので分け⇒和気(氣)⇒別となり、都々古別なのかな?
本殿は国の重要文化財に指定されている
文禄3年(1594年)の佐竹義宣による再建とされる本殿は、棚倉城の地から移築されたという
三間社流造で南面し、屋根は銅板葺、彫刻がないなど全体に簡素な造りになるほか、東北地方では数少ない桃山期の本殿建築とされる
境内に残る、立派なマムシグサの実
もうひとつ気になる名称の神社、石(いわ)都々古和氣社は、直線距離15km程北にある
都々古別3社の中では、最も人里にあり、前の2社とは雰囲気が異なる
それでも式内社、旧社格は郷社、陸奥国一宮を称す
雲に乗り後ろ脚を大空に蹴り上げた躍動感あふれる狛犬が、飛翔獅子型
旧高遠藩(現長野県伊那市)の高遠石工の系譜を引く、師匠小松利平から受け継がれる石工 小林和平が製作(昭和5年)の町指定文化財
いよいよ雨が降り始めた
駐車場から急な石段を登ると二の鳥居をくぐり、左に折れてさらに登る
本殿は国の重要文化財に指定されている
文禄3年(1594年)の佐竹義宣による再建とされる本殿は、棚倉城の地から移築されたという
三間社流造で南面し、屋根は銅板葺、彫刻がないなど全体に簡素な造りになるほか、東北地方では数少ない桃山期の本殿建築とされる
境内に残る、立派なマムシグサの実
もうひとつ気になる名称の神社、石(いわ)都々古和氣社は、直線距離15km程北にある
都々古別3社の中では、最も人里にあり、前の2社とは雰囲気が異なる
それでも式内社、旧社格は郷社、陸奥国一宮を称す
雲に乗り後ろ脚を大空に蹴り上げた躍動感あふれる狛犬が、飛翔獅子型
旧高遠藩(現長野県伊那市)の高遠石工の系譜を引く、師匠小松利平から受け継がれる石工 小林和平が製作(昭和5年)の町指定文化財
いよいよ雨が降り始めた
駐車場から急な石段を登ると二の鳥居をくぐり、左に折れてさらに登る
花被片中心部に黄色の斑紋があり、めしべの柱頭にも紫色の斑紋が点在するのが、
ホトトギス(杜鵑草、Tricyrtis hirta、ユリ科ホトトギス属の多年草、日本固有種)
花被片中心部に黄色の斑紋がなく、めしべの柱頭に紫色の斑紋がないのが、ヤマジノホトトギス
キレンゲショウマの実のようです
ツワブキもたくさん
八幡山の頂上に鎮座する
石段下の大桜
三の鳥居と拝殿
境内から三の鳥居と大桜
創建の年代は不詳だが、治暦2年(1066)源氏の氏神である石清水八幡宮の分霊(八幡神・大国主命)を勧請し、石都々古和気神社に合祀したというので、それ以前なことは確か
祭神は味秬高彦根命(アヂスキタカヒコネ)で、これは棚倉町の都都古別神社(都都古和気神社)二社と同じであり、分祀されたものであるという説もあるが、明確な裏附けはないそう
合祀した八幡神は、八幡宮の主祭神、誉田別命(十五代応神天皇)
大国主命(オオクニヌシ)は、葦原中国の国津神の主宰神
永承6年(1051)、源有光が源義家の安倍一族追討の軍に加わって功績を挙げ、代官として石川の地を賜った
ツワブキもたくさん
八幡山の頂上に鎮座する
石段下の大桜
三の鳥居と拝殿
境内から三の鳥居と大桜
創建の年代は不詳だが、治暦2年(1066)源氏の氏神である石清水八幡宮の分霊(八幡神・大国主命)を勧請し、石都々古和気神社に合祀したというので、それ以前なことは確か
祭神は味秬高彦根命(アヂスキタカヒコネ)で、これは棚倉町の都都古別神社(都都古和気神社)二社と同じであり、分祀されたものであるという説もあるが、明確な裏附けはないそう
合祀した八幡神は、八幡宮の主祭神、誉田別命(十五代応神天皇)
大国主命(オオクニヌシ)は、葦原中国の国津神の主宰神
永承6年(1051)、源有光が源義家の安倍一族追討の軍に加わって功績を挙げ、代官として石川の地を賜った
有光は康平6年(1063)摂津国からこの地に移り、名を石川有光とし、八幡山山頂の東側に三芦(みよし)城(石川城)を築城した
以降25代、528年間にもわたって、石川氏の居城となっていたが、永禄6年(1563)24代当主・石川晴光が、佐竹氏ら諸勢力の圧迫から伊達氏の庇護を求めるため、伊達晴宗の四男・親宗(のちの石川昭光)を養子に向かえて家督を譲りましたが、永禄10年(1567)に佐竹義重に攻め落とされ、その後は佐竹氏に臣従することで帰還を果たした
天正18年(1590)小田原征伐への不参を理由に、豊臣秀吉による奥州仕置で、改易処分となり、廃城になったという
茶臼岳山麓で見た、テンニンソウ(天人草)
よく手入れのされたお寺の色が濃い石都々古和気神社をあとに、さらに北の三春町へ
日本五大桜または三大巨桜の1つとして知られる三春滝桜は、推定樹齢1000年超の国の天然記念物の、エドヒガン系の栽培品種枝垂れ性のベニシダレ(紅枝垂桜)の巨木
その後、今年の4/25にオープンした、アウトドア拠点施設「アウトドアヴィレッジ三春」内に展開する、モンベル 三春店へ
結構遅くまで長居をしてしまった
三春町新町の真照寺ライトアップへ行ってみたが、まだ1分紅葉
茶臼岳山麓で見た、テンニンソウ(天人草)
よく手入れのされたお寺の色が濃い石都々古和気神社をあとに、さらに北の三春町へ
日本五大桜または三大巨桜の1つとして知られる三春滝桜は、推定樹齢1000年超の国の天然記念物の、エドヒガン系の栽培品種枝垂れ性のベニシダレ(紅枝垂桜)の巨木
その後、今年の4/25にオープンした、アウトドア拠点施設「アウトドアヴィレッジ三春」内に展開する、モンベル 三春店へ
結構遅くまで長居をしてしまった
三春町新町の真照寺ライトアップへ行ってみたが、まだ1分紅葉
雨の日の福島探索も、悪くなかった






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