4/15/2026

富士旅行(浅間神社)

2026/4/15 (Wed)

白糸の滝」からさらに南下して、「世界遺産 富士山」巡りは

  • 山宮浅間神社
  • 富士山本宮浅間大社
  • 村山浅間神社
  • 須山浅間神社
  • 冨士浅間神社
  • 冨士御室浅間神社
  • 静岡県富士宮市山宮の山宮浅間神社(やまみやせんげん)
    「富士山元宮」と書かれた一の鳥居の額
    「元」の字だけ、後付けされた感があるが、、、
    第7代孝霊天皇の御代(紀元前3C)、富士山大噴火により、周辺住民は離散し、荒れ果てた状態が長期に及んだ
    第11代垂仁天皇はこれを憂い、垂仁3年(紀元前27)に浅間大神(あさまのおおかみ)を山足の地に祀り、山霊を鎮められた
    その後は姫神の水徳をもって噴火が静まり、平穏な日々が送れるようになったと伝えられる
    最初に祀られた「山足の地」は、特定の地名を指すのではなく、富士山麓の適所を選んで祭祀を行った事を示すと考えられている
    特定の場所に祀られるようになったのは、ここ山宮にお祀りされてから後のこと
    葉柄が無いので、ニリンソウ
    第11代垂仁天皇の子 日本武尊(ヤマトタケル)が、景行天皇40年(110)東国の夷(えびす=賊徒)を征伐するため駿河国を通られた際、「相武国造に荒ぶる神がいる」と欺かれ、賊徒の野火に遭う
    そこで浅間大神に祈り草那藝剣で草を刈り掃い、叔母から貰った火打石で迎え火を点けて炎を退ける
    生還した倭建命は国造らを全て斬り殺し、死体に火をつけ焼いた場所を焼遣(やきづ=焼津)という
    景行天皇50年(120)日本武尊は、東征の帰路に山宮に立ち寄り、祠を建て篤く浅間大神を祀られたと伝えられている
    ウラシマソウ
    浅間大社と山宮浅間神社を往復する神事「山宮御神幸」で、神事に用いられる鉾を休めるための「鉾立石」が、参道に二つ置かれている
    祭神は、木花之佐久夜毘売命(コノハナノサクヤビメ、浅間大神、高千穂峰に降り立ったニニギの妻)
    若葉や花が食用になる人気の山菜ニリンソウだが、トリカブトの若葉とそっくりで、誤食に注意が必要
    茎の先端から筒状の緑白色の花が1〜2個垂れ下がるように咲くのは、ホウチャクソウ(宝鐸草)
    山宮には社殿が無く、古木・磐境を通して富士山を直接お祀りする、古代祭祀の原初形態を残す神社
    遥拝所には溶岩を用いた石列が長方形に組まれており、富士山を拝む方向に祭壇が位置している
    今日は生憎だが、富士が見えたらすごいだろうな
    ちなみに「富士山がある風景100選」だという

    黄色い花は、ヤマブキソウ(山吹草)かな
    ウバユリ(姥百合)の若葉
    クサノオウ(草の黄、瘡の王)
    次に向かったのは、山宮から遷座した先の「富士山本宮浅間大社」
    大同元年(806)坂上田村麿は平城天皇の勅命を奉じ、富士山の神水の湧く大宮の地に壮大な社殿を造営し、山宮から遷座した
    富士山8合目以上は奥宮境内地と認められ、おそらく日本最大の広さを持つ神社だ
    楼門は、間口4間、奥行2間半、高さ6間半の2階入母屋造で、正面・左右脇に扉が付く
    楼門の左右には随身が安置してあり、背銘に慶長19年(1614)の年号がある
    楼門に掲げる扁額は、聖護院入道盈仁親王の御筆で、文政2年(1819)に制作されたもの
    徳川家康が、関ヶ原の戦いに勝利した御礼として寄造営した、本殿・幣殿・拝殿
    また、富士山八合目以上を境内地として寄進したことで、山頂奥宮も手に入れた
    源頼朝は、建久4年(1193)富士山麓において巻狩りを行った際、流鏑馬を奉納した
    武田信玄・勝頼親子は大社を篤く崇敬し、神領の寄進、社殿の修造などを行った
    境内にあるしだれ桜は信玄の寄進とされ、信玄桜と呼ばれている
    祭神は元宮と同じ、木花之佐久夜毘売命、相殿神として、瓊々杵尊(ニニギ、アマテラスの孫、コノハナノサクヤビメの夫)、大山祇神(オオヤマツミ、イザナギ/イザナミの神産みの国津神、コノハナノサクヤビメの父)
    全国千三百余社ある浅間神社の総本宮
    八重咲ヤマブキ
    富士山とご来光の形のおみくじ
    本殿は、二重の楼閣造で浅間造りと称し、其の構造は他に例がないという国指定重要文化財
    1階は5間4面葺卸の宝殿造り、2階は間口3間奥行2間の流れ造りで、共に桧皮葺
    信玄桜はほとんど散ってしまった
    シロヤマブキ(白山吹)
    湧玉池は、富士山の雪解け水が何層にもなった溶岩の間を通り湧出するもので、国指定特別天然記念物
    富士宮口から富士山を目指す富士講登山者が、この霊水に禊ぎをして身を清めた池

    富士の霊水でおみくじを濡らす

    池のほとりのフジの花が咲き始め
    水屋神社
    天神社
    本殿後ろを、ぐるりと回れる
    トキワツユクサ(常磐露草、ノハカタカラクサ(野博多唐草)、Tradescantia fluminensis、ツユクサ科ムラサキツユクサ属の多年草)

    桧皮葺の流れ造りが美しい
    ヒラドツツジ(平戸躑躅、Rhododendron × pulchrum、ツツジ科ツツジ属の半常緑低木)
    本宮大社から来た道を北上し、富士宮市村山の旧県社、村山浅間神社(むらやませんげん)
    駐車場脇のヤエザクラ
    孝昭天皇2年(紀元前474)に富士山中腹の水精ケ岳に創建され、崇神天皇朝(3C~4C)に神領地や神戸を賜り、応神天皇朝(3C~4C)に社殿修造、大宝元年(701)に現在地へ遷座したという
    平安時代の僧で村山修験の祖 末代(まつだい)上人が、久安5年(1149)浅間大神の本地仏が大日如来との本地垂迹説により、富士山頂上に大日寺を建てるなどし、富士山を修験の霊山として開き、その末代が境内に堂舎を構え、以後富士山に対する神仏習合の地として発展したという
    修験道の拠点で「富士山興法寺」と称した村山興法寺三堂を構成した堂社のひとつで、「富士根本宮」、「七社浅間」などと称された古社
    スノーフレーク
    鳥居が立っているが、お寺の雰囲気が残る
    拝殿も、寺院の雰囲気だが、祀られるのは、木花開耶姫、大山祗命、彦火火出見命(ヒコホホデミ、初代神武天皇)、瓊々杵命、天照大神、伊弉諾尊、伊弉冉尊

    社殿の修造には、九条関白家を始めとする公家衆からの寄進があったという
    本殿はしっかりと神社
    本殿右奥から、富士山修験の祖である末代上人(大棟梁権現、富士上人)を祀る「高根總鎮守 氏神社」
    富士山八合目以上の支配権は当時、富士山興法寺が保持していたが、安永8年(1779)徳川家康により、富士山本宮浅間大社に移譲されてしまう
    明治の廃仏毀釈により、山頂の大日堂は富士山本宮浅間大社奥宮となり、富士山興法寺は衰退してゆく
    氏神社左奥からの最古の富士登山道「村山口登山道」も、本宮大社を起点とする「富士宮口登山道」開設により廃れてしまう
    セントウソウ(仙洞草)

    氏神社から下りて、神社境内に残る「冨士山興法寺大日堂」は、木造大日如来坐像(胎蔵界)を本尊として祀る
    県指定天然記念物の大スギ

    県指定天然記念物のイチョウ
    シャクナゲ(石楠花)


    村山浅間神社をあとにし、愛宕山の麓を走行中、ミツマタの森を見つけた
    タチツボスミレ(立坪菫)
    ヒメフウロ(姫風露)
    キバナオドリコソウ
    アメリカスミレサイシン
    到着した裾野市須山の「須山浅間神社」は、用沢川の対岸にあり、「須山口登山道」の起点となる

    人皇12代景行天皇の御代(110)、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の際に創建し、欽明天皇13年(552)蘇我稲目(そがのいなめ、蘇我馬子の父)が再興したと伝わる
    樹齢400~500年以上とされる杉の巨木が、16本ある
    天元4年(961)平兼盛が修理奉幣とされるが、天元2年~正暦元年(977~991)駿河守の地方官時代であろう

    現在の拝殿は2013年に改修されたもの

    現在の本殿は文政6年(1823)に再建された物
    祭神は、木花開耶姫命、天津彦火瓊々杵命、大山祇命、天津彦火々出見命、天熊大人命(タケヒラトリ(大背飯三熊之大人)のことだと思う、五男三女神アメノホヒの子で、アマテラスの命で葦原中国を治めよと派遣されたが、戻ってこなかった)
    拝殿右手にある覆屋には、
    慶長16年(1611)に建立された「古宮」が収められており、
    八坂大神(スサノオ系)、八幡大神(応神天皇(誉田別)系)、愛鷹大神(富士山信仰に関わり、愛鷹山周辺に祀られる神。火防や家内安全など、富士の女神)、子安大神、疱瘡守護神(天然痘除け)が祀られている

    駐車場への帰路、よく見るとキバナオドリコソウがたくさん


    白花のオドリコソウもいました


    5番目に来たのは、駿東郡小山町須走の「東口本宮 冨士浅間神社(須走浅間神社)」
    神社名のふじは、ウ冠ではなくワ冠で冨士ですが、鳥居の額には「不二山」
    たしかに富士山は、ふたつとあらざる山ですね
    延暦21年(802)富士山東麓が噴火したため、国司・郡司達が須走に斎場を設け祭事を行い鎮火の祈願を行い、それにより噴火が収まったため、大同2年(807)に鎮火祭の跡地に、報賽のため社殿を造営したと伝わる
    創建後まもなく、弘法大師(空海・真言宗)が修行を行い、富士登山をしたといわれ、「弘法寺 浅間宮」とも称されていた
    宝永4年(1707)の宝永大噴火では、3~4mに及ぶ降灰により、社殿はじめ境内も街も埋没したものの、駿河国・甲斐国を結ぶ交通の要衝であったため、幕府による手厚い復興支援が行われた
    溶岩の上に立つ狛犬
    小田原藩主 大久保加賀守によって再建された二階建ての随神門(楼門)←神社HPより
    看板には違う表記があり、どちらが正しいやら


    本殿・幣殿・拝殿が一体の権現造で、宝永の噴火後に再建された当時の遺構をそのままに、修復・修繕を行ってきたが、昭和33年の修繕に際し、屋根が千鳥破風に変更された













    2026/4/16 (Thu)























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