栃木市岩舟町小野寺の村檜神社へ
一の鳥居は、背面の道路の先にあり、これは二の鳥居となります
大化の改新の翌年646年に創建された、大変古い神社です
拝殿は無く、本殿は三間社(さんげんしゃ)流造で、正面に片流れの庇 (ひさし) が付く春日造(かすがづくり)、屋根は檜(ひのき)の皮で屋根を葺(ふ)く檜皮葺(ひわだぶき)
本殿は天文22年(1553)に建てられたもので、室町時代後期の傑作として、明治41年(1908)に国の重要文化財に指定された
一の鳥居は、背面の道路の先にあり、これは二の鳥居となります
石段の先に神門があり、
神門から覗く、本殿の屋根部分
本殿の扁額拝殿は無く、本殿は三間社(さんげんしゃ)流造で、正面に片流れの庇 (ひさし) が付く春日造(かすがづくり)、屋根は檜(ひのき)の皮で屋根を葺(ふ)く檜皮葺(ひわだぶき)
本殿は天文22年(1553)に建てられたもので、室町時代後期の傑作として、明治41年(1908)に国の重要文化財に指定された
神楽殿
境内社の西宮神社
西宮神社の末社
神社の裏山に、関東ふれあいの道がある
裏山に登ってみると、檜皮葺の本殿がよく見える
マンサクが見頃だ
見晴らし台の先は、尾根道になっている
ここを行くと、お隣の大慈寺の奥の院へ通づる道があるはずだが、無理をせずに撤退
一旦村檜神社から下る
二の鳥居横には、大慈寺(だいじじ)への入り口
六地蔵
ここは、地元が生んだ偉大な宗教家「慈覚太師円仁」さんが、9歳から学んだ場所
円仁さんが記した、唐での修行日記「入唐求法巡礼行記」を英訳し、世界に発表した、元駐日米国大使のエドウィン・ライシャワー博士は、昭和39(1964)大慈寺を訪れた
大慈寺は聖武天皇の737年、行基によって建立されたと伝わり、天台宗宗祖伝教大師最澄が天台宗の東国布教の拠点にし、最盛期には広い境内に七堂伽藍を備え修行僧が数千人もいたそうです
下野国戦国大名、佐野一族の房綱(ふさつな)が奉納した鐘をつるす鐘楼
伝説によれば、年老いた小野小町は、大慈寺の本尊薬師如来に病気平癒の祈願をし、その結果治癒したため、終世大慈寺所在の小野寺の地に住んだ、とされる
行基作と言われる薬師如来像を祀る、薬師堂
小野寺郷の七石、黒岩座禅石・大黒石・牛首石・詰岩・屏風岩・山伏石・腰掛石があるらしい
本堂は清楚です
サンシュユ(山茱萸、Cornus officinalis)
慈覚大師堂は、円仁自彫りの太子像を収めるそうだが、子供の円仁が勉強した場所か?
境内社の西宮神社
西宮神社の末社
神社の裏山に、関東ふれあいの道がある
裏山に登ってみると、檜皮葺の本殿がよく見える
マンサクが見頃だ
見晴らし台の先は、尾根道になっている
ここを行くと、お隣の大慈寺の奥の院へ通づる道があるはずだが、無理をせずに撤退
一旦村檜神社から下る
二の鳥居横には、大慈寺(だいじじ)への入り口
六地蔵
ここは、地元が生んだ偉大な宗教家「慈覚太師円仁」さんが、9歳から学んだ場所
円仁さんが記した、唐での修行日記「入唐求法巡礼行記」を英訳し、世界に発表した、元駐日米国大使のエドウィン・ライシャワー博士は、昭和39(1964)大慈寺を訪れた
大慈寺は聖武天皇の737年、行基によって建立されたと伝わり、天台宗宗祖伝教大師最澄が天台宗の東国布教の拠点にし、最盛期には広い境内に七堂伽藍を備え修行僧が数千人もいたそうです
下野国戦国大名、佐野一族の房綱(ふさつな)が奉納した鐘をつるす鐘楼
伝説によれば、年老いた小野小町は、大慈寺の本尊薬師如来に病気平癒の祈願をし、その結果治癒したため、終世大慈寺所在の小野寺の地に住んだ、とされる
行基作と言われる薬師如来像を祀る、薬師堂
小野寺郷の七石、黒岩座禅石・大黒石・牛首石・詰岩・屏風岩・山伏石・腰掛石があるらしい
本堂は清楚です
サンシュユ(山茱萸、Cornus officinalis)
慈覚大師堂は、円仁自彫りの太子像を収めるそうだが、子供の円仁が勉強した場所か?
鳥居があるが、お祈りは「南無小野寺稲荷大明神」と唱えるそうです
ここから奥の院への入り口がある
山道を歩くのは、冬に限る
途中の休憩所に、このような歌碑が置かれている
最澄が、観音信仰に熱心だったため、山中に建てられた観音堂
この観音堂が、奥の院だと勘違いする人は多いのではなかろうか
諏訪岳、標高324mを見上げる
岩の上に塔が見えます
諏訪岳もくっきり
奥の院から戻り、慈覚太子円仁様の立像
村檜神社から、横道で入りましたが、こちらが大慈寺の山門です
道路の反対側に、小野寺郷の七石の大黒石があります
伝教大師最澄が建立したと伝えられる相輪操(木へんに棠)は、全国に6か所だけの貴重なもので、現在の塔は享保10年(1725)に再建されたもの
最澄はここを、唐より持ち帰った天台教学(天台宗の基)センターとしたそうここから奥の院への入り口がある
山道を歩くのは、冬に限る
途中の休憩所に、このような歌碑が置かれている
最澄が、観音信仰に熱心だったため、山中に建てられた観音堂
この観音堂が、奥の院だと勘違いする人は多いのではなかろうか
諏訪岳、標高324mを見上げる
岩の上に塔が見えます
奥の院に到着です
東北自動車道が、よく見えます
享保21年(1736)に造られた、宝筺印塔諏訪岳もくっきり
座禅を組む石座布団か、石の板が3枚
慈覚太子円仁が、座禅をした修行の場所だそうで、小野寺郷の七石の黒岩座禅石だ看板は、立てて終わりではなく、意味あるものにしましょう
この地層、すごくありませんか?幾重にもうねっています奥の院から戻り、慈覚太子円仁様の立像
村檜神社から、横道で入りましたが、こちらが大慈寺の山門です
道路の反対側に、小野寺郷の七石の大黒石があります
さて前出の小野小町ですが、円仁さんと同じ遣唐使船に乗っており、ここの地名の小野寺は、小野氏との関連がある場所であり、ひょっとすると本物の墓との指摘もあります
田んぼの中のあぜ道上に、ぽつんとあります
死因は自殺、諏訪岳北東の岩場から薬師如来の浄瑠璃浄土の世界を見て身を投げた、ということです
年老いた小町が、諏訪が岳の断崖に登りますと、崖の彼方に紫色に輝く、見事な薬師如来の世界を見た小町は、「これこそまさしく薬師如来の世界に違いない」と感動のままに崖から身をおどらせていったといいます
小町が身を投げた場所を身投げ淵といい、小町の髪の毛が当地方のイグサになったとも伝わります
たまたま外に出られていたお寺の女性に、庭園を案内していただきました
かつては樹齢300年の桜の木があったのですが、2002年に生涯を終え、その木の子孫を、足利フラワーパークの方により、同じ場所に植えたものだそうです
オレンジのミツマタの花
河津桜
北関東で最初のぼけ封じ観音さま
サンシュユ
村檜神社からの山道(上の線)をもう少し登れば、奥の院からの道(下の線)とぶつかったのですが、大慈寺は麓からの方が、堪能できて良かったと思います
大慈寺から東北道をくぐった先に、梅花山成就院があります
「ぼけ封じ観音霊場」「東国花の寺百ヶ寺」「小野寺七福神 大黒天」「都賀坂東三十三観音」ですが、梅の花とは関係なかったようですたまたま外に出られていたお寺の女性に、庭園を案内していただきました
かつては樹齢300年の桜の木があったのですが、2002年に生涯を終え、その木の子孫を、足利フラワーパークの方により、同じ場所に植えたものだそうです
オレンジのミツマタの花
河津桜
北関東で最初のぼけ封じ観音さま
サンシュユ
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