2023/3/03
人生初上陸の、日光市足尾町
国道122号線の日足トンネルを抜け、渡良瀬川に沿って走行中、道路わきの木にたたずむ大型のサルに「何しに来たん」と言われ、親子のシカが車の目の前を横断し、そういう場所であることを確認した
庚申山登山口の銀山平にある、国民宿舎「かじか荘」
岩魚のひつまぶしは、そのまま1杯目、薬味を載せて2杯目、お茶漬けで3杯目
たれが濃いので、お茶漬けが一番かな?それにしてもあまりイワナを感じなかった
ヤシオマスのカルパッチョも、味がぼけ気味
かき揚げ天ぷらうどんのかき揚げは、実に美味しいのだが、つゆが濃い味で、昔の栃木の味が残されている
内湯は大きなガラス張りで、山々がよく見えます
露天風呂まで、30mほど廊下を歩きます。寒いです
岩を積んだ、開放的な露天風呂です
左右対称な女風呂
ここに車を停め、庚申山(標高1892m)まで、片道9.3km、往復7時間
かき揚げ天ぷらうどんのかき揚げは、実に美味しいのだが、つゆが濃い味で、昔の栃木の味が残されている
内湯は大きなガラス張りで、山々がよく見えます
女湯は左右反転だが、覗かれ防止の分、開放感が薄れるかな
洗い場は8人分。シャワーも5秒で切れることはない露天風呂まで、30mほど廊下を歩きます。寒いです
岩を積んだ、開放的な露天風呂です
左右対称な女風呂
肝心のお湯は、源泉温度が36度なので沸かし湯ですが、湯船の温度はちょうどよく、長湯向きです
pH10とアルカリ度が高めなので、肌になめらか感十分
なにより露天も内湯も、一人風呂が最高!
ここに車を停め、庚申山(標高1892m)まで、片道9.3km、往復7時間
その先の皇海(すかい)山(標高2144m)だと、キャンプ登山ですね
銅を採掘するための坑道が網の目の備前楯山(標高1273m)なら、往復3.5時間
かみさんの腰が治ったら、行けるかな?
庚申山は、その名の通り庚申信仰の山で、勝道上人が開いたそうで、道中に信仰の跡が残っているそうだ
かじか荘のすぐ下にある「猿田彦神社」は、明治23年(1890)に小滝坑の山神社として坑夫により建立されたが、昭和29年(1954)小滝坑廃止により、三尊像を祀る庚申山荘内小祠が本殿、ここを遥拝殿とし、里宮となった
庚申信仰と猿田彦神との関連だが、「猿」の字が「庚申」の「申」に通じたことと、猿田彦が塞の神とも同一視され、これを「幸神」と書いて「こうしん」とも読み得たことも一因か
坑夫たちが作ったにしては、空気が神聖な神社だ
庚申ノ大神として天津祖庚申猿田彦大神、地津主申子大己貴大神、人津霊己巳少彦名大神、三柱の大神を奉祀したのが庚申山猿田彦神社の創建である
坑夫たちが作ったにしては、空気が神聖な神社だ
庚申ノ大神として天津祖庚申猿田彦大神、地津主申子大己貴大神、人津霊己巳少彦名大神、三柱の大神を奉祀したのが庚申山猿田彦神社の創建である
社殿、社務所、山籠所を庚申山中腹に建立し、霊域の尊厳を示す(特に庚申山碑、丁程碑は当時の隆昌をしのぶ足跡として現在に残在す。また、滝沢馬琴の小説「南総里見八犬伝」中、庚申山怪猫退治の章では奇岩怪石、霊域の神秘を、広く紹介される)以来、庚申講中登拝者ひきもきらさず
狛犬は阿吽共に子守りのようです
山内には庚申御別名として、道祖神、寿命神、金神、塩竃神、幸神、縁結神、船玉神を開運七福庚神として光嶺に配祀。
当山以外自生しないまぼろしの霊草、庚申草(特別天然記念物指定)あり。
昭和21年には社殿を焼失してしまい、以来小祠にて斎祀してきた。
現在、銀山公園の、庚申山猿田彦神社里宮遥拝殿にて、参拝者の便宜をはかり「庚申の里」として親しまれ多くの御参拝者を集めている。
本殿は、写真では見えにくいが、拝殿からさらに石段を上がった先の丘の上に建てられている
本殿は、写真では見えにくいが、拝殿からさらに石段を上がった先の丘の上に建てられている
神社から1kmほど下流に、「小滝」があります
この滝があったため、この地区の名称が「小滝」になりました坑夫をはじめ銅山関係者らが住み、人口1万人にもなったという小滝地区ですが、現在では家一つ残っていません
この先の坑道から、トロッコを通したのであろう鉄橋が、庚申川にかかっている
この穴は、火薬庫として使われていたらしい
里まで下りて、磐裂神社(いわさく)
一の鳥居右手に宮前子育地蔵尊、となりに「庚申山表口」石標があり、鳥居左手には「庚申尊献燈」,庚申塔,青面金剛,不動明王などが並ぶ
わたらせ渓谷鐵道の踏切の先に、二の鳥居があります
勝道上人が、磐裂神の加護により日光の開山を完遂出来た事を報謝し、大同2年(807)中禅寺湖畔に創建されたが、翌大同3年(858)には、奉祭する足尾五氏(神山、星野、倉沢、斉藤、亀山または細内)一族が足尾に移住するにともない、旧足尾町遠下(とおじも)の地に遷宮し、妙見天童と称した。
この先の坑道から、トロッコを通したのであろう鉄橋が、庚申川にかかっている
この穴は、火薬庫として使われていたらしい
里まで下りて、磐裂神社(いわさく)
一の鳥居右手に宮前子育地蔵尊、となりに「庚申山表口」石標があり、鳥居左手には「庚申尊献燈」,庚申塔,青面金剛,不動明王などが並ぶ
わたらせ渓谷鐵道の踏切の先に、二の鳥居があります
勝道上人が、磐裂神の加護により日光の開山を完遂出来た事を報謝し、大同2年(807)中禅寺湖畔に創建されたが、翌大同3年(858)には、奉祭する足尾五氏(神山、星野、倉沢、斉藤、亀山または細内)一族が足尾に移住するにともない、旧足尾町遠下(とおじも)の地に遷宮し、妙見天童と称した。
明治4年(1871)神仏分離令により磐裂神社と改称し、大正3年(1914)に現在の地に遷宮した
明治23年(1890)8月の大洪水の際に流され、後に下流で発見され引き上げられたという「流された狛犬」という話があり、前足が折れてしまったり、全体的に丸みを帯びている(角が取れている)この子たちなのではないか?という推測が、たくき よしみつさんの日記にあった
本殿は質素だ
本殿右わきの、樹齢約280年、高さ35mの御神木のヒノキは、県の名木百選
ヒノキにしては珍しく、真ん中ほどで北に傾いています
本殿と分けて建てられている新しい拝殿は、だれのものだかわからない
わたらせ渓谷鐵道の1両編成客車が、神社前を通過していった
通洞とは、鉱山用語で「ほぼ水平に掘削された坑道で、鉱山の主たる運搬坑道,排水坑道,通気坑道などとして使用する」ということだ
これは面白い。各地の歌詞を集めようか、何番まであるのだろう?
通洞駅から徒歩1分の、蓮慶(れんけい)寺
神護景雲元年は西暦767年なので、書き間違いですね。勝道上人の生まれは735年ですし
江戸時代初期に、銅はこの寺の上流で発見されており、銅山の中心地であった簀子橋に山師らが建てた山神社の石鳥居が、境内に移されています
幕命で因州(因幡国、鳥取藩)から来山し、銅山の指導にあたった吉田太郎衛門春安(よしだしゅんあん)の供養五輪塔
あれ?波之利大黒天は、別の場所に祀られているの?
本殿右わきの、樹齢約280年、高さ35mの御神木のヒノキは、県の名木百選
ヒノキにしては珍しく、真ん中ほどで北に傾いています
本殿と分けて建てられている新しい拝殿は、だれのものだかわからない
わたらせ渓谷鐵道の1両編成客車が、神社前を通過していった
車を観光案内所に停め、ここから徒歩で足尾を散歩
トロッコが通っていた、通称「トロ道」を歩き、通洞(つうどう)駅通洞とは、鉱山用語で「ほぼ水平に掘削された坑道で、鉱山の主たる運搬坑道,排水坑道,通気坑道などとして使用する」ということだ
鉄道唱歌 第三集 東北・磐城編というのがあり、その中に栃木の唄があった
7 次に来たるは古河間々田 両手広げて我が汽車を
万歳と呼ぶ子供あり 思えば今日は日曜か
8 小山を降りて右に行く 水戸と友部の線路には
紬産地の結城あり 桜名所の岩瀬あり
9 左に行かば前橋を 得て高崎に至るべし
足利桐生伊勢崎は 音に聞こえし養産地
10 金と石との小金井や 石橋過ぎて秋の田を
立つや雀の宮鼓 宇都宮にも着きにけり
11 いざ乗り換えん日光の 線路これより分かれたり
二十五マイル走りなば 一時半にて着くという
12 日光見ずば結構と 言うなといいし諺も
思い知らるる宮の様 花か紅葉か金襴か
13 東照宮の壮麗も 三大廟の高大も
見る間に一日日暮しの 陽明門は是かとよ
14 滝は華厳の音高く 百雷谷に吠え叫ぶ
裏見霧降とりどりに 雲より落つる物凄さ
15 又立ち返る宇都宮 急げば早も西那須野
ここより行けば塩原の 温泉わずか五里あまり
16 霰たばしる篠原と 歌いし跡の狩場の野
ただ見るすすき女郎花 殺生石はいずかたぞ
17 東那須野の青嵐 吹くや黒磯黒田原
ここは何くと白河の 城の夕日は影赤し
神護景雲元年は西暦767年なので、書き間違いですね。勝道上人の生まれは735年ですし
江戸時代初期に、銅はこの寺の上流で発見されており、銅山の中心地であった簀子橋に山師らが建てた山神社の石鳥居が、境内に移されています
幕命で因州(因幡国、鳥取藩)から来山し、銅山の指導にあたった吉田太郎衛門春安(よしだしゅんあん)の供養五輪塔
毎年穂を咥えて日光中宮祠に現れる白ネズミはどこから来るのか、これを確かめるために勝道上人がこの白ネズミの足に紐(緒)を結わえて放った
「足に緒をつけた」ことから「足緒」、たどり着いたのが地を「足尾」とよぶようになったという
宝増寺の本堂に安置されている波之利(はしり)大黒天は、勝道上人の作とされ、七福神巡りの一つになっているあれ?波之利大黒天は、別の場所に祀られているの?
「渡良瀬川橋梁(大黒橋)の袂に祀られる大黒様」は、知らなかったし観光マップにも載ってない!
お寺の敷地外に、ぽつりと神明稲荷
寂れた雰囲気が漂う足尾駅
比較的大柄な木造駅舎で、銅山最盛期の足尾町は宇都宮市に次ぎ栃木県内では2位の人口を誇ったこともあるという
トロッコを引いたのか、ディーゼル機関車が3両
キハ35が朽ちていました
ここから旧市街地を歩いて戻ります
呑龍(どんりゅう)寺は、呑龍上人(どんりゅうしょうにん)を尊敬と信仰する有志により、作られた
お寺の敷地外に、ぽつりと神明稲荷
寂れた雰囲気が漂う足尾駅
駅本屋やプラットホームが登録有形文化財
トロッコを引いたのか、ディーゼル機関車が3両
キハ35が朽ちていました
ここから旧市街地を歩いて戻ります
呑龍(どんりゅう)寺は、呑龍上人(どんりゅうしょうにん)を尊敬と信仰する有志により、作られた
呑龍上人は江戸時代に実在し、捨て子等の悪習を廃止して禄米(ろくまい)を施し、困窮者の児女を弟子という目的で養育され、幾多の尊い命を救われたそうだ
キリスト教禁止令による、隠し十字架を探すための、アレであろうか?
渡良瀬川に沿って、旧銅街道を歩く
寛保元年(1741)産銅量の減退に伴い、足尾銅山の銅山師たちは、山元(やまもと)の困窮を救うため、足尾銅山で「寛永通宝・一文銭」の鋳造許可を願い出て「足尾銭:足字銭」を鋳銭することとなった。いわゆる「お救いの鋳銭座」であった。鋳銭座の場所は、文化3年(1806)の「五街道分間延絵図」の「足尾通五巻」に 〝此辺(このあたり)鋳銭跡〟 と印されている
通洞駅前商店街で、コロッケを揚げる香りがしてきた
道中、営業中の商店はこの「ますや」だけだった
通洞駅前商店街で、コロッケを揚げる香りがしてきた
道中、営業中の商店はこの「ますや」だけだった
ボイラーを使いラードで揚げたコロッケとメンチカツが売りの、足尾名物【昔ながらのコロッケ】で、バラエティー番組でも散々取り上げられており、われわれが注文しようとしていた矢先に、店の前に横付した車からおばちゃんが飛び出し、割り込まれた!
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