12/10/2023

宮城旅行(仙台、塩竃)

2023/12/10
宮城旅行の最初は、仙台市内で牛タンの昼食
日曜のちょうど12時だが、有名店はどこも長蛇の列
我々は、牛たん焼の本場、宮城・仙台に門を構えて三十年という「牛たん炭焼利久」へ
1枚1枚丹精込めて味付し熟成させた手造りの逸品を、炭火でジューシーに仕上げた、牛たん焼(塩味)に、国産牛テールスープ付きの牛たん定食に、青唐辛子を丁寧に漬け込んで作り上げるピリリッ!と辛い南蛮味噌と、季節の野菜を漬け、たっぷりと盛り付けたお新香
さらに特製デミグラスソースで牛たんを柔らかく煮込んだ、牛たんシチューに、メンチカツ、牛タンスモークドスライス入りサラダが付いた、「満喫定食」は、牛タン初心者におすすめの満足の定食
牛タンの薄切りを特製旨だれで味付けし、カウンター席の目の前で丁寧に炭火であぶった「旨だれ牛たん炙り丼膳」は、一番町店限定の絶品
本場の牛タンを味わった後は、寛永13年(1636)に70歳で生涯を閉じた仙台藩祖伊達政宗公の遺命によりその翌年、経ケ峯に造営された霊屋(おたまや)瑞鳳殿(ずいほうでん)へ
参拝者無料の駐車場から、最初の石段を上ると黄色の大カエデで二股に分かれ、左側から瑞鳳殿に向かう
仙台藩を築いた伊達政宗は、戦国大名として政治・軍事面での活躍は広く知られるところであるが、時代を代表する文化人でもあり、文化的にも上方に負けない気概で、自らの" 都" 仙台を創りあげようとした。
政宗は、その気概をもって、古代以来東北の地に根付いてきた文化の再興・再生を目指す中で、伊達家で育まれた伝統的な文化を土台に、上方の桃山文化の影響を受けた豪華絢爛、政宗の個性ともいうべき意表を突く粋な斬新さ、さらには海外の文化に触発された国際性、といった時代の息吹を汲み取りながら、これまでにない新しい“伊達”な文化を仙台の地に華開かせていった。
そして、その文化は政宗だけに留まらず、時代を重ねるにつれ、後の藩主に、さらには仙台から全国へ、そして武士から庶民にまで、さまざまな方面へ広がり、定着し、熟成を加えていった。
このため、『政宗が育んだ“伊達”な文化』として、日本遺産に認定されている
瑞鳳殿は、日本遺産Story#019、構成文化財の17となっている
瑞鳳殿は、本殿、拝殿、御供所、涅槃門からなり、桃山文化の遺風を伝える豪華絢爛な廟建築として1931年、国宝に指定されたが、1945年7月の仙台空襲により惜しくも焼失
現在の建物は規模、装飾ともに、焼失以前の瑞鳳殿を範とし、1979年に再建されたもの


瑞鳳殿の正面門は「涅槃門」と呼ばれ、煩悩を取り去った悟りの境地となる状態を意味し、広くは死という意味だそう
瑞鳳殿の涅槃門は樹齢数百年の青森檜葉を用いて再建され、正面扉上部の蟇股には瑞獣「麒麟」、左右の妻飾には「牡丹と唐獅子」など焼失前と同様の豪華な飾り彫刻が施されている

焼失前の拝殿は瑞鳳殿の床面と同じ高さになっており、正面扉を開けると、橋廊下、唐門を通して瑞鳳殿内に安置された政宗の御木像に拝礼することができたとされ、また側面からも回廊が伸びており御供所とも繋がっていたが、現在の拝殿は瑞鳳殿がよく見えるよう簡略化されている
正面扉上には江戸時代の名書家佐々木文山の筆による扁額があり、扁額の赤色はサンゴ、文字の白色は真珠で造られ、製作費は500両、現在価値で5000万円はしたそうだが、現在はレプリカだと、案内の方が教えてくれた
仙台開府四百年を記念して2001年に大改修工事が実施され、柱には彫刻獅子頭を、屋根には竜頭瓦を復元し、創建当時の姿が甦ったという本殿


9種以上あるといわれる伊達家の家紋だが、竹笹の円の中で雀が向かい合っている意匠で、常緑の竹に群れを成す雀ということで、子孫繁栄や一族の栄華を願う吉祥紋を立体的にあしらった「仙台笹」が掲げられている
瑞鳳殿から山を回り、反対側のエリアへ
瑞鳳殿と同様に本殿、唐門、拝殿、御供所、廟門などの建築からなる華麗なものだったが、明治初年に廃仏毀釈の影響を受け、本殿以外は取り払われたという
二代藩主伊達忠宗公(1599~1658)の霊屋「感仙殿」(かんせんでん)
瑞鳳殿とともに国宝に指定されたが、昭和20年の戦災で残された本殿も焼失
現在の霊屋は瑞鳳殿に続いて再建が進められ、昭和60年に完成したもの
感仙殿の左には、三代藩主伊達綱宗公(1640-1711)の霊屋「善応殿」(ぜんのうでん)
昭和60年感仙殿とともに再建された
感仙殿の両脇には二代忠宗公死去の際、殉死した直臣と陪臣の供養塔(宝篋印塔)があるが、三代綱宗公の死去は殉死の禁令以後の事であったため殉死者はなく、家臣が出家して菩提を弔うという「擬殉」が行われた

石段の周囲には、樹齢380年といわれる杉並木に覆われている
タマブキ(Parasenecio farfarifolius、キク科コウモリソウ属の多年草)
石段下のわき道を入ると、五代藩主吉村公以後の歴代藩主・公子公女の墓所である御子様御廟(おこさまごびょう)がある



参道の途中にある、臨済宗 妙心寺派 正宗山 瑞鳳寺(ずいほうじ)は、江戸時代初期の寛永14年(1637)、仙台藩2代藩主・伊達忠宗によって、香華院(菩提寺)として創建された
仙台藩から一門格の寺格を与えられ、経ケ峯に多くの末寺を持っていたが、明治維新期の廃仏毀釈や廃藩置県による藩の後ろ盾の喪失によりことごとく廃寺となった
大正4年(1915)本山の京都妙心寺貫主はその荒廃を嘆き、鎌田智勝を特派して復興に当たらせたという
本尊は平泉の毛越寺より遷した釈迦三尊像

丸に竪三引き両は、伊達家にもっとも古くから伝わるとされる伊達家本来の家紋で、源頼朝の奥州攻めに従軍した際に伊達家の祖先が下賜されたという伝統ある家紋
駐車場前のわき道の先に穴蔵稲荷神社があるようだが、今回は未訪問
車で仙台城跡(青葉城)へ向かうが、道路工事中で入れず、伊達政宗の騎馬像には会えなかった
続いて青葉区八幡の大崎八幡宮へ
平安時代、東夷征伐に際して坂上田村麻呂は、武運長久を祈念すべく武門の守護神である宇佐八幡宮を現在の岩手県水沢市に勧請、鎮守府八幡宮を創祀した
その後、室町時代に奥州管領大崎氏はこれを自領内の現遠田郡田尻町に遷祀し守護神として篤く崇敬した為、世に大崎八幡宮と呼ばれた
大崎氏の滅亡後、伊達政宗が居城の玉造郡岩出山城内の小祠に御神体を遷し、仙台開府後の慶長12年(1607)仙台城の乾(北西)の方角にあたる現在の地に祀られた
社殿の造営には、慶長9年~12年にかけ、豊臣家召抱えの梅村日向守家次・梅村三十郎頼次・刑部左衛門国次・鍛冶雅楽助吉家といった当世随一の巨匠が招聘され、その手に成った御社殿は豪壮にして華麗なる桃山建築の特色が遺憾なく発揮されており、仙台六十二万石の総鎮守として伊達家の威風と遷宮当時の絢爛たる息吹とを今に伝えている

その様式は入母屋造りの本殿と拝殿とを相の間で繋いだ石の間造りであり、後に権現造りと言われる建築様式は、外観は長押上に鮮やかな胡粉極彩色の組物(斗きょう)や彫刻物を施し、下は総黒漆塗りと落ち着いた風格を現し、拝殿正面には大きな千鳥破風、向拝には軒唐破風を付け、屋根は柿葺と意匠が凝らされている
現存する最古の権現(ごんげん)造りで、豪華で流麗な安土桃山時代の我が国唯一の遺構として、国宝建造物および日本遺産に指定された
仙台総鎮守として藩祖伊達政宗公はじめ歴代仙台藩侯はもとより、仙台城下の人々に至るまで厄除け・除災招福や必勝・安産の神として篤く尊崇されている
仙台における「卦体神」(けたい。方言では、けでがみさん)という十二支信仰において、乾(戌亥)の守護神とされ、戌歳・亥歳生まれの人々から崇敬を受けている
拝殿内部には、狩野派の絵師佐久間左京の筆に成る唐獅子の障壁画や大虹梁の青龍、石の間の格天井には五十三種の草花が描かれており、俗に左甚五郎の作と伝わる花鳥動植物や説話風の人物など多彩な彫刻が組み込まれ、全体的に美しい調和をなし、安土桃山時代の文化を今に伝える我国最古の建造物であり、その貴重さから明治36年に特別保護建造物に、また昭和27年には国宝に指定された
拝殿内部の蟇股(かえるまた)に「にらみ猫」の彫刻があります。彫り上げたのは、日光東照宮の「眠り猫」の彫師紀州和歌山出身の棟梁刑部左衛門国次(おさかべさえもんくにつぐ)で、のちに伝説上の名工・左甚五郎(ひだりじんごろう)のモデルとなった人物
「にらみ猫」の彫刻は、「牡丹の花に羽を休めている蝶を狙う猫」という構図で、富貴長寿の吉祥の図柄と言われている
仙台での名建築を手掛けた国次は、仙台藩が普請(ふしん)を担当した日光東照宮の仕事ぶりが認められ、江戸城・上野寛永寺などの造営を行い江戸幕府に大棟梁として迎え入れられた。同じ名工が手掛けた「にらみ猫」と「眠り猫」ということになります
「松川だるま」は、顔のまわりが群青色で縁取られ、胴体に宝船や福の神が鎮座する色鮮やかなだるまで、古くから仙台の庶民に縁起物として親しまれているそうで、仙台張子として日本遺産になっている



神輿殿のみこし







太元師明王(たいげんみょうおう)を祀る太元社
四代藩主・伊達綱村公が太元師明王を本尊とした太元社師明王法の執行を念願としたことが『伊達綱村遺言覚書』に記されており、享保4年(1719)に国介安全と五代藩主・伊達吉村公の武運長久、子孫繁栄を願い建立されたとあるが、元禄11年(1698)の古図にはすでに、拝殿前西側に太元堂の記載があることから、それ以前と推定される
創健当時は仏像として祀られ、明治時代の神仏分離により現在の場所に遷された

右から諏訪社、鹿島社
寛永期(1624~44)に信濃国(長野県)一之宮諏訪大社より分祀されたものと伝えられる
祭神は出雲大社の主祭神、大国主神の御子「建御名方神」(たけみなかたのかみ)で、水の守護神又生命の根源を司る神として崇められている

常陸国(茨城県)一之宮の鹿島神宮より分祀されたと伝わるが、鎮座の由緒、時期は不明
祭神は「武甕槌神」(たけみかづちのかみ)で、武道の祖神、決断力の神として仰がれると共に縁結び、安産又交通安全等の御神徳があります

鎮座の由緒は不祥ですが、寛政期(1789~1801)にはお祀りされており、祭神「天御中主神」(あめのみなかぬしのかみ)は、天地を創造した大自然を司る神と崇められている
北辰とは北極星を意味し、天空の中央にある事から転じて皇居、又は皇室を指すともいわれる

新潟県長岡市の金峰神社の御分霊を分祀したものと伝えられる龍神社は、雨を降らせ雨水を司る神、また海上安全の神としても崇敬されている
参道から見上げる社殿

境内のコウヤマキ
仙台市内の篤志崇敬者により勧請された金刀比羅社は、讃岐国(香川県)一之宮金刀比羅宮より分祀された
祭神は「大物主神」(おおものぬしのかみ)で、海上守護、航海安全の神として、また商売繁盛、病気平癒の神様として信仰されている

大崎八幡宮をあとにし、仙台東照宮へ向かう
正式名称は東照宮ですが、他の東照宮と区別するため「仙台東照宮」と呼ばれている
鳥居は二代藩主伊達忠宗夫人振姫の郷里、備前国の犬島の花崗岩でつくられた明神鳥居で、県内最古の石鳥居
承応3年(1654)仙台藩の二代藩主伊達忠宗公によって創建された
伊達政宗公の没後、仙台藩の領内では大火、大洪水等の災害が続き、仙台藩の財政は重大な危機に陥った
しかし幕府の物心両面の援助により危機を脱し、二代忠宗公は、徳川家に対する尊崇・感謝の標として、時の将軍徳川家光公に東照宮創建を願い出て直々に許可を得ると、社殿の造営にとどまらず、神社を維持管理するための御宮町の制定、仙台最大のお祭りである東照宮御祭礼の斎行と、御譜代町を含む氏子町の指定など、東照宮を仙台藩の守護神とするための様々な取り決めを行った

東照宮の社殿は本殿、唐門、随身門、別当寺仙岳院など、15棟以上の社殿を80万人の人手と金2万両を費やし、5年の歳月をかけて造営された
祭神は、言わずと知れた徳川家康公
開運厄除・家内安全・学業成就・商売繁盛・必勝祈願などの御神徳があるという
銀杏の木は、見事に落ち葉の絨毯と化していた
神社の鎮座する場所は、伊達政宗公の案内で徳川家康公が休息したといわれるゆかりの地であり、当時は天神社(現在の榴岡天満宮)の境内地だった
またこの地は、仙台城の正確な北東(艮)の位置にあたり、まさに伊達家、仙台城下町の守護神として鎮座している

仙台城や、仙台藩の社寺建築は大工棟梁梅村氏が担当しており、大崎八幡宮本殿(国宝)、松島の瑞巌寺本堂(国宝)、仙台東照宮本殿(重要文化財)等その建築は高く評価されている


東照宮の神輿渡御は仙台祭とよばれる全国有数のお祭りで、明暦元年(1655)に始まり江戸時代を通じて行われたという
今では5年に一度行われており、360年以上前に御神体をのせて江戸から仙台まで渡御した、東北最大とも言われる神輿は、この中にあるのか?
東照宮の正面には南北に2kmほど続く宮町があり、仙台駅の開通前は遥か広瀬川まで続く、仙台の南北に通る最長の道でした
宮町の名称は、東照宮造営時、門前町として御宮町を制定したことに由来しており、御宮町の町人は、東照宮の境内整備やお供え物の準備などをする代わりに、納税の免除など様々な特権を受けたという


仙台市をあとにし、塩釜市の鹽竈神社(しおがまじんじゃ)へ
博物館前の四季桜を、うまく写せなかった

平安時代初期(820)に編纂された『弘仁式』主税帳逸文には「鹽竈神を祭る料壱萬束」とあり、これが文献に現れた初見とされいるものの、全国の各社を記載した『延喜式』の神名帳にはその名が無く「式外社」ではあったが、中世以降、東北鎮護・海上守護の陸奥國一宮として重んじられ、奥州藤原氏や中世武家領主より厚い信仰を寄せられてきた
黄色く色ずづいたカエデ
夕暮れが迫る中、いそいでお参りに向かう
奈良時代、国府と鎮守府を兼ねた多賀城が当神社の西南5km余の小高い丘(現在の多賀城市市川)に設けられると、その東北方向の「鬼門」に位置し、蝦夷の地に接していた鹽竈神社が、国府の守護と蝦夷地平定の精神的支えとして、都から赴任してきた政府の人々に篤く信仰されたものと考えられる
東神門から境内へ
武家社会となってからは平泉の藤原氏・鎌倉幕府の留守職であった伊沢氏、そして特に伊達氏の崇敬が厚く、歴代藩主は大神主として務めてきた
随神門(楼門)から唐門と社殿を望む
正面の四足門の唐門も国の重文

唐門をはいって正面の社殿は、元禄8年(1695)から9年の歳月をかけ宝永元年(1704)に竣功した300年を経た左右宮で、本殿・拝殿ともに国の重文
左宮に武甕槌神(たけみかづちのかみ)・右宮に経津主神(ふつぬしのかみ)を祀る左右宮は、権力者に崇められた武神であったが、ともに配神である
拝殿前に立ち左が左宮かと思いきや、右宮の本殿は三間社流造で、屋根部分がわずかに見える
左宮の本殿も右宮同様素木で、京都の賀茂社を参考にしたとされている
左右宮の右手に主祭神である鹽土老翁神(しおつちおぢのかみ)を別宮で祀る
別宮とは、その他ではなく特別という意味らしい
東北地方を平定する役目を担った鹿島神宮主祭神武甕槌神と、香取神宮主祭神経津主神は、鹽土老翁神の道案内で海路を亘り、七ヶ浜町花渕浜(現在の鼻節神社付近)からこの地に上陸したと言われ、やがて鹿島・香取の神は役目を果たし元の宮へ戻り、鹽土老翁神は塩釜の地に残り、人々に製塩法を教えたとされ、塩釜の地名の起こりともなった
別宮の本殿も三間社流造り、一方の拝殿は朱漆塗銅板葺入母屋造と好対照を見せるどちらも国の重文
通常の神社は鳥居ないし門を入った正面に主祭神を祀るが、鹽竈神社は正面に左右宮(鹿島・香取の神)が南向きに、門を入って右手に主祭神たる塩土老翁神を祀る別宮が松島湾を背に西向きに建てられている
これは伊達家の守護神たる鹿島・香取の神を仙台城の方角に向け、大神主たる藩主が城から遙拝出来る様に配し、海上守護の塩土老翁神には海難を背負って頂くよう海に背を向けているとも言われている
樹齢500年という多羅葉の木
銅鉄合製の文化燈籠は、伊達家九代藩主周宗が幕命により蝦夷地警備に出役、 無事任務遂行を感謝して文化6年(1809)に寄進した、市指定の有文
末社の神明社、八幡社、住吉社、稲荷社が並ぶ
推定樹齢600年の老杉
随神門へ続く表参道は、202段の驚きの急坂
こちらから来なくて、本当に良かった

表参道から見上げた随神門
見事な建造物である
お隣の志波彦神社(しわひこじんじゃ)
もとは東山道より多賀城に至る交通の要所宮城郡岩切村(仙台市岩切)の冠川の畔に鎮座され、「延喜式」に収められている陸奥国百社の「名神大社」と言う格別の崇敬を朝廷より受けていた神社
明治4年5月国幣中社に列格され、明治7年12月24日に鹽竈神社の別宮本殿に遷祀された
この際の御祭文に、後日鹽竈神社境内に社殿を造営する旨が奏上されており、大正11年に当時の宮司山下三次が政府に造営の陳情をしましたが、翌年の関東大震災発生にて効を奏せず、次代古川左京宮司が時の政府に強く訴えかけ、ようやく昭和9年に着手、明治・大正・昭和の神社建築の粋を集め昭和13年に完成したのが現社殿となる
祭神は志波彦大神という、あまり馴染みのない御神名だが、志波とは「物のシワ」つまり端を指す言葉で、仙台市内に志波町、栗原市志波姫に志波姫神社(式内社)、岩手県紫波郡に志波城跡、志和稲荷神社・志和古稲荷神社とシワの名を持つ所が点在する
これは大和朝廷の統治範囲が北進するにつれ、シワの地(朝廷勢力圏の端)が遷っていったと思われ、この地方で信仰されていた国津神(土着神)を志波彦神或いは志波姫神と呼んだものと考えられる
但し農耕守護・殖産・国土開発の神としての信仰が伝わっており、農耕を生業としていた人々の守護神だったと思われる
比較的装飾を抑えた鹽竈神社とは趣を異にする朱黒の極彩色漆塗りの拝殿
内部は石敷きで、左右と背面には高欄付きの廻縁をもつ
屋根は入母屋造り、銅板葺きということだが、参拝時間を過ぎてしまった
全額国費を以て造られた最後の神社だという


12月の東北としては暖かな一日で、強行スケジュールをこなせたと思うが、さすがに松島観光はできなかったので、明日を松島観光に使うこととした
今夜は石巻駅近くのビジネスホテルに宿泊だが、夕飯はついていないので外飲み
日本酒の墨廼江 蔵の華 オール宮城で仕込んだ純米吟醸は、爽やかな香りと使用米「蔵の華」特有のスマートな旨味と、切れ上がる飲み口
三陸産カキフライ
金華サバしめ鯖
漁師に愛される極上の珍味ばくらいは、ホヤの塩辛
蒸しガキ

気仙沼ホルモン
笹かま磯部揚げ
締めは牛タン握り
鶏がらスープ茶漬け
デザート
宮城と三陸を食い尽くしの夕食は、石巻駅前の居酒屋「団欒」でした
駅前通りには、石ノ森章太郎のサイボーグ009
これは#005、ジェロニモ・ジュニアだ
これは♯008 ピュンマ
主人公の♯001 島村ジョー
石ノ森章太郎は石巻よりも北にある宮城県登米郡石森町(現在の登米市)の出身だが、石ノ森少年は自転車で3時間かけて石巻の中瀬地区あった岡田劇場という映画館に通い詰め、漫画家につながる知識や感性を培ったということで、震災復興を込めた石巻の町おこしのため、「マンガによる街おこし」への協力をしているそうだ


0 件のコメント:

コメントを投稿