4/16/2024

山形旅行1(山寺)

2024/4/16 (Tue)
朝9時に自宅を出て、東北自動車道~山形自動車道経由で山寺まで3時間半
山形県山形市山寺の手打そば ぼた餅 美登屋で昼食
山寺おやき「宝珠っ子」は、山形名物「青菜漬け」をそば汁で煮て、七味をちょっと効かせたピリ辛の具にし、米粉と里芋に紅花を加えた皮で包んだもの
「だしそば」は、山形の郷土料理「だし」を、のど越しの良いそばと共に味わえます
「板そば」とは、木の縁のざるや板の上にのせて提供される蕎麦のこと

山寺日枝神社

貞観2年(860)慈覚大師円仁が宝珠山 立石寺を開基する際に、比叡山延暦寺に倣って山寺一山の守護神として、近江国坂本の日吉(ひえ)大社より御分霊を勧請し祀ったのが始まり
当初より山王権現、またの名を大宮大権現と称され二ノ宮、三ノ宮、客人権現、更には山王二十一社の規模が整えられ、天台宗派の手により、山王神道の神仏習合における東北地方の一大根拠地となった
大永元年(1521)山形城主である最上家の家督親族争いの巻き添えに伴い、天童城主天童頼長らの一軍により、山寺一山はことごとく焼き討ちされ、当社も廃儘と帰したが、天文2年(1534)には、一山の守護神として、当社を先ず再建せらるに至る
明治3年の神仏分離令(神仏判然令)により立石寺とは切り離し、山寺村の守護神として日枝神社と社名を改め村社の社格を有することとなり、ここに1000年に及ぶ立石寺の当社への別当は終止符を打つ事となった
亀の甲石
松尾芭蕉と弟子の曾良の像

真っ白い仏 万物供養阿弥陀堂
人の生活に必要な生き物など、全てを供養してくださる仏様
念仏堂
江戸時代の初めに再建された

天台宗 宝珠山 立石寺(りっしゃくじ) の、鎌倉時代の作と云われる山門
慈覚大師円仁が開山した東北四寺(立石寺、中尊寺、毛越寺、瑞巌寺)を巡る「四寺廻廊」の最後の寺
山寺自体が、国の史跡・名勝、さらに紅花文化にともなう日本遺産に指定されている
鐘楼
山寺全体図
貞観2年(860)清和天皇の勅命で、天台座主第3世慈覚大師円仁により創建
当時、この地を訪れた慈覚大師は土地の主より砂金千両・麻布三千反をもって、周囲十里四方を買い上げ寺領とし、堂塔三百余をもってこの地の布教に勤められた
開山の際には、本山延暦寺より伝教大師が灯された不滅の法灯を分けられ、また開祖慈覚大師の霊位に捧げるために香を絶やさず、大師が当山に伝えた四年を一区切りとした不断の写経行を護る寺院となった
その後鎌倉期に至り、僧坊大いに栄えたが、室町期には戦火に巻き込まれ衰えた時期もあり、江戸期に千四百二十石の朱印地を賜り、堂塔が再建整備された
姥堂の本尊は奪衣婆の石像で、ここから下は地獄、ここから上が極楽という浄土口で、そばの岩清水で心身を清め、新しい着物に着かえて極楽の登り、古い衣服は堂内の奪衣婆に奉納する
左の大きな岩は、笠岩とも笠投石ともいい、慈覚大師が雨やどりしたところとも伝えられる
鼻(花)先が緑なので、ミヤマキケマン
カテンソウ(花点草)

見上げる岩山

せみ塚
俳聖松尾芭蕉が山寺の地を訪れたのは元禄2年(1689)、紀行文と句を詠んだのは当時麓にあった宿坊といわれている
その後、翁に連なる弟子たちがこの地を訪れ、往時の面影から翁を偲び、この場所が芭蕉翁が句の着想を得た場所ではないかと、翁の遺した短冊を土台石の下に埋め塚を立てたものがせみ塚となる
その後、山寺は斎藤茂吉をはじめ多くの俳人・歌人が訪れ、今尚変わらぬ風景に芭蕉翁を感じた方々が残した詩が参道の至るところに句碑となっている
百丈岩と呼ばれる石の崖
参道のあちこちの、車のついた後生車という木柱は、年若くして亡くなった人の供養で、南無阿弥陀仏ととなえて車をまわすと、その仏が早く人間に生まれて来ることができるという
クサソテツ(コゴミ)かと思ったのですが、ひげが茶色なので異なるようです
立石寺でも最古級の「磨崖仏」



弥陀洞(みだほら)
ながい歳月の風雨が直立した岩をけずり、阿弥陀如来の姿をつくり出した
一丈六尺(約4.8m)の姿から丈六の阿弥陀ともいい、仏のお姿に見ることができる人には、幸福がおとずれるという


仁王門
嘉永元年(1848)に再建された、けやき材の優美な門で、 左右に安置された仁王尊像は運慶の弟子たちの作と云われる
石塔には、亡くなった人のお骨が入っており、他の岩穴にも古い人骨が収められているという
開山堂を横目に直進

奥之院への参道には、江戸時代は12もの支院があったそうだが、今は4つ
そのうちの性相院(しょうぞういん)は、阿弥陀如来を本尊とする
金乗院(こんじょういん)
延命地蔵菩薩を本尊とし、ほかに千体・不動明王を安置しており、寺は天保11年(1840)、澄明旭海によって再建された


最上義光公御霊屋
最上義光公と家臣ら合計十人の霊を、本尊となる一寸一社の地蔵尊により祀る
中性院(ちゅうしょういん)
阿弥陀如来を本尊とし、明治元年に不動院と合併された
背後の岩窟には新庄藩戸沢家歴代の石碑が立つ
奥之院前の広場に到着

金燈籠

如法堂(奥之院)
慈覚大師が中国で持ち歩いていたとされる釈迦如来と、多宝如来の両尊を御本尊とする如法堂は、参道の終点にあるので「奥之院」と呼ばれている
この道場で慈覚大師が初められた石墨草筆・一字三礼の如法写経行が護られている
大佛殿には、像高5mの金色の阿弥陀如来が安置されている
カキドオシ

ハクモクレンの花芯
ダンコウバイの蕾かな?

華蔵院(けぞういん)
ここもかつての十二支院の一つで、慈覚大師が開山のみぎりこの寺にお住まいになったといわれる
本尊は慈覚大師作と伝えられる観世音菩薩

三重小塔
永正16年(1519)に造られたこの塔は、柱間一尺五寸ほどの小さなものですが、他の塔と同様の工程で組み上げられ、全国で最も小さい三重塔(国重要文化財)
レンギョウ



山寺の門前町、慈覚大師の随行六人衆が起こした旧干布村(天童市干布地区)は立石寺の寺領とされ、江戸時代の早くから紅花栽培が行われ、多くの紅花商人が出て活躍した
最上川がもたらす肥沃な土壌と朝霧の立ちやすい気候風土が、良質な紅を多く含む紅花を育み、トゲのある紅花を摘み易くした栽培適地であり、やがて流域で広く栽培されるようになった
江戸時代初期には全国生産量の50~60%を占め、質・量ともに日本一の紅花産地となった
岩の上の赤い小さな堂は写経を納める納経堂で、山内一古い建物で県指定文化財
納経堂の真下に、貞観6年(864)歿の慈覚大師が眠る入定窟(にゅうじょうくつ)があるという
ちなみに頭蓋骨は、比叡山のお墓に埋葬されているらしい



開山堂
慈覚大師円仁を祀る開山堂は、大師の木造の尊像が安置されて居り朝夕食飯と香を供えている


五大堂
開山30年後に建立された五大明王を祀る道場で、断崖に突き出すようお堂が立ち、山寺を一望する山中随一の絶景

仁王門背面
エンレイソウ(延齢草、Trillium smallii、シュロソウ科エンレイソウ属の多年草)は紫色の花で、白いのはミヤマエンレイソウ(別名:シロバナエンレイソウ)ですって
以前日光で蕾を見かけたが、咲いているのは初見となる
セントウソウ (仙洞草、オウレンダマシ、Chamaele decumbens、セリ科セントウソウ属の多年草)初見
麓まで下ってきた

山寺の大イチョウ (日枝神社 御神木)





根本中堂
立石寺という御山全体の寺院の本堂に当たる御堂(国重要文化財)
現在の根本中堂は延文元年(1356)初代山形城主・斯波兼頼が再建した、入母屋造・五間四面の建物で、慶長13年(1608)の大修理を含め数度の修理を受けているが、ブナ材が全体の6割程用いられブナ材の建築物では日本最古といわれる
堂内では、本尊として慈覚大師作と伝えられる木造薬師如来坐像をお祀りし、脇侍として日光・月光両菩薩と十二支天、その左右に文殊菩薩と毘沙門天を拝することができる
比叡山延暦寺から分灯された「不滅の法灯」が伝えられる山寺の本堂(日本遺産)

山形城主であった最上家(斯波兼頼を祖とする)の庇護を受けていた
最上義守の母・春還芳公尼(しゅんげんほうこうに)は荒廃した堂宇の再興に努め、その孫(最上義守の子)にあたる最上義光(よしあき)も立石寺を保護した
義光の時代の分限帳によれば、寺領1,300石が与えられている。最上氏が山寺を崇敬し保護するという関係は、最上氏が改易される元和2年(1622)まで続いた
全盛期の江戸時代初期には2800石の朱印地・僧房100寺・僧侶300余人を有したという





立石寺から東へ、仙山線の橋梁をくぐり千手院へ
山寺観音 千手院の「ついてる鳥居」

天台宗 宝珠山 千手院は、最上三十三観音第2番札所
線路をわたり、参道となる
本尊の千手観世音菩薩は、慈覚大師御作と伝わるが、現在は秘仏として安置され、代わりに高さ約1mの、金色の千手観音立像を拝顔できる

千手院の裏山に登ってみる
垂水遺跡へのルートは「かたくりの径」になっている
今年はどこへ行っても、カタクリが待っていてくれる
ヒメアオキの雌花
パラパラと雨が落ちてきたので、右手だけ行ってみる
慈覚大師円仁が、山寺の構想を練った場所がこの裏山で「峯の浦」と呼ばれている

円仁宿跡

岩に付着したコケの先から、水が滴っているまさに垂水
峯の浦 垂水遺跡


蜂の巣状の巨大な岩肌と鳥居の造形美


やまがた景観物語#66 神秘的な空間 峯の浦・垂水遺跡
幸い雨が本降りになることなく、裏山を降ります
夕日も差してきました



立谷川沿いの駐車場の桜がきれいだったので、写真会






さくらんぼの花

夕食は、予定したお店がお休みで、山形市瀬波のイタリアン「ウミトソラ」
食材や生産者、レストランに訪れる人や従業員が「海と空のようにつながる」という思いが込められた、絶品料理が味わえるという
前菜は、サワラのマリネやカモ肉、焼アスパラガスなど、どれも素晴らしい美味しさ
スープはコンソメ系ながら、玉ねぎのような甘さがある

生パスタは、山形県産の小麦「ゆきちから」を、製麺機を使用して高圧で切り出すことにより、もちもちとした食感が生まれるというが、この生地からPappardelle(パッパルデッレ)という、非常に幅の広いパスタで、一つはトマトソース
もう一つはオイルソースとパルミジャーノを選択
魚コースのメバル、焦がしバターソース

デザートにレモンのレアチーズケーキとリンゴを煮詰めたソース
さっぱりとしたコーヒーが付いてくる
食後は、山形市百目鬼(どめき)の百目鬼温泉
百目鬼源泉 10.670 g/kg高張性 3,478 mg/kg Na+ 576.3 mg/kg Ca++ 68.5 mg/kg K+ 11.6 mg/kg Mg++ 5,996 mg/kg Cl- 296.9 mg/kg SO4-- 88.6 mg/kg HCO3- pH7.1中性 57.4℃高温泉
ナトリウム-塩化物泉で、硫化水素 H2S ガスは含まれておらず、硫黄臭はない
今までに高張性のお湯は、茨城県の阿字ヶ浦温泉、東京都新島の湯の浜の2つだけで、どちらも海辺だが、ここのお湯も海が隆起してできた地層からのものだと思う
海沿いと言えば長崎県の小浜温泉も、海水のようなしょっぱさだったが、なぜか低張性湯だった
加温、加水、循環無しのかけ流しだが、その分湯温が高く、外湯でも長湯はできない
注意書きに「入浴は3分まで」で、出たり入ったりするように書かれていた


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