4/18/2024

山形旅行3(天童~米沢)

2024/4/18 (Thu)
ホテルのすぐわきにある、天童公園からスタート
満開の桜が見事だ
赤い葉脈のある広幅の新葉は、ウバユリの新芽だと判断していたが、蕾をつけた姿からタデ科のダイオウ属のようだ

今日は薄曇りなのに視界が利かない。黄砂が来ているようだ


フキの花が咲きました



やまがた景観物語#71「舞鶴山から見おろす天童のまちなみ」

ヤマブキの大輪が美しい

標高242mの舞鶴山三角点
天童城跡
南北朝時代に北畠天童丸が居を構えたとされるが、文中年間(1372~1374)に最上氏の圧力により天童城を去ったという。最上直家の子天童頼直が、天授元年/永和元年(1375)、天童城に移り天童氏を称した。その後天童氏は一門を領内に分散配置することで村山郡に大きな勢力を築き、最上八楯の領袖として次第に最上氏と対立した。天正5年(1577)最上義光は天童城を攻め、天童氏は最上八楯の援軍を得て最上軍を撤退させるが、天正12年(1584)最上義光がまたも攻めると延沢信景などの寝返りにより落城、廃城となった。
天童氏は宮城に落ち延び伊達家の家臣になり、現在でも多賀城市に子孫が残るという
愛宕神社
永和3年(1377)当時の天童城主里見頼直が勝軍地蔵を御殿の奥の間に安置したことに始まる
天正12年(1584)山形城主最上義光が天童城を攻略したのち、本丸跡に社殿を建立し社領1370石を寄進し創建


社殿は慶長8年(1603)に再建されたが、寛文年間に暴風で倒壊したため、延宝6年(1678)再び造営され現在の社殿となる
江戸時代には末社48社を数えたと伝えられる
神社脇からの登山道だったので、山道を下る


山の中腹にある、天童神社
祭神は少彦名命であるが、後に北畠天童丸が合祀された

城壁の名残が見れる



展望台から駐車場へ戻る
道の駅 天童温泉で、山形土産を探す





国道13号を南下し、観光物産会館「ぐっと山形」を発見
昼時だったので、「肉の中村」の山形豚三元豚角煮丼と山形牛巻にぎり
しゅうまい
「丹野こんにゃく」もちこんにゃく
味噌田楽で昼食とする

さらに南下して、南陽市宮内の熊野大社大鳥居
置賜三十三観音 第30番札所 長谷観音という旗が立っていたが、ここは御朱印所であり、長谷観音自体は熊野大社の北側にあった
しかし敷地内には六地蔵が並び、
観音堂のようなお堂があった

登録上は熊野神社ですが、一般には熊野大社と呼ばれているらしい

手水舎に桜の枝の飾りつけ
一の鳥居から長い参道を左に折れ、階段で拝殿に登る
階段の途中右手に、いくつかの境内社があり、最初の幸(さいわい)神社の祭神は猿田彦神ですが、本地仏として馬頭観音を祀る

大社(おおやしろ)神社
湯殿山神社、月山神社

熊野神社とは、熊野三山(熊野本宮大社〈本宮〉、熊野速玉大社〈新宮〉、熊野那智大社〈那智〉)の祭神である熊野権現の勧請を受けた神社のことで、日本全国に三千余の熊野神社があるという
元祖である熊野三山と、ここ山形県南陽市の熊野神社(熊野大社)、そして碓氷峠の熊野が「日本三大熊野」と総称され、熊野信仰の中心となっている
大同元年(806)、平城天皇の勅命により再建され、その後も時の天皇、法皇の恩恵をうけ、のちに天台宗・真言宗・羽黒修験・神道の四派も加わり、熊野修験の霊場としても栄えた
拝殿の真向かいにある神楽殿は、まさに奉納するのにふさわしい場所だ
2006年に茅葺屋根の改修工事をおえた拝殿ですが、天明7年(1787)の墨書が発見され、それより古いと思われる木材が主要部分に用いられていることから、拝殿の創立年代は、この天明7年をさらにさかのぼることがわかった
唐破風(からはふ)、千鳥破風(ちどりはふ)を、萱で葺くのは、山形県独自の建築様式で、出羽三山合祭殿などにみられるが、熊野大社の拝殿は、その中でも最も古いものだという
額や提灯は熊野大社
茅葺屋根は美しい

茅葺の拝殿の後ろは本殿ではなく、新しめな拝殿が続く
その拝殿から距離を置いて、本殿が見える
本殿側に回り込む途中に境内社が並び、最初の和光神社
右から景政神社、源義家公を祀る義家神社
続いて菊理姫神(くくりひめのかみ)は全国的にも有名な縁結びの神様を祀る白山神社、水の災難から守って下さる弁財天、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祀る厳島神社
天照大御神を祀る皇太神社
本殿は拝殿から離れた位置にあり、塀で囲まれた場所に本殿を中心に右に二宮、左に三宮を配す
二の宮神社(山形県指定重要文化財)
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を二宮に祀る
別名、熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)「速」は勢いのある「玉」は魂の意味で、生き生きとした魂(生命)の神様

伊弉冉尊(いざなみのみこと)を本殿に祀る
別名として、熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)「夫須美」の「ムス」はあらゆる物を生み出す「ヒ」は霊を表し、あらゆる命を生み出す霊妙な力をお持ちの大神様
本殿は春日造


三宮には伊弉諾尊と伊弉冉尊の子供、素盞鳴尊(すさのおのみこと)、別名熊野家津御子大神(くまのけつみこのおおかみ)

塀の外、左に正一位高平稲荷神社






本殿裏の彫刻から、三羽のうさぎを見つけると願いが叶うというが
一羽しか見つからず

菅原神社
八幡神社は、戌年・亥年の守り神



自分土産は、日本一の山形の地酒
米沢市丸の内の松が岬公園は、米沢城址にある

松岬神社
出羽国米沢藩9代藩主、上杉鷹山(ようざん)の米沢藩への貢献により、神としてまつられている

後に、上杉景勝、直江兼続、細井平洲、竹俣当綱、莅戸善政を合祀している


松が岬公園の中央には、四角い堀に囲まれた米沢城址が残されている

米沢城跡


伊達政宗公生誕の地碑
上杉鷹山公之立像
「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」
という中国故事の歌を「伝国の辞」と共に次期藩主に伝えたことが、広く知られている
上杉神社
上杉謙信ただ一人を祀る
天正6年(1578)越後春日山城で急死した上杉謙信は、養子の上杉景勝が会津から慶長6年(1601)に米沢へ移封されたのに合わせ、謙信の祠堂も米沢に遷された
米沢城二の丸の法音寺を首席とする十一ヶ寺が、交代で祭祀を執り行ってきたが、明治に入ると神仏分離令、廃城令などにより、謙信の遺骸が城内から上杉家廟所に移され、その守護のために法音寺も廟所前に移転した
城内に留まっている謙信の霊魂を神式で祀るため、十一ヶ寺次席の大乗寺の僧侶が還俗して神官となり、併せて米沢藩中興の名君である上杉鷹山を合祀し、山形県社「上杉神社」とした




春日神社
上杉鷹山公が学問と武芸に励むことや、行動や賞罰に不正の無いこと等を誓った誓詞を奉納した神社




上杉伯爵邸
米沢の桜は満開を越して、お濠を染め上げている



3日間の山形旅行を終え、上杉城史苑内のカフェで休憩
うこぎ茶&うこぎアイス
ウコギ科の落葉低木ヒメウコギは、知将直江兼続にて米沢で栽培が始まり、後の上杉鷹山がヒメウコギの垣根を奨励したとされ、春から初夏にかけての新芽が美味しく切り和えやおひたしをはじめ天ぷらなど、様々な料理法でいただけるという
お茶は、漢方薬のようなウコギエキスを十分に感じられたが、アイスの方はピンとこなかった

0 件のコメント:

コメントを投稿