2022/10/21
栃木十三仏霊場の一番札所であり、かつ関東三霊場、つまり北関東36不動、関東108地蔵、関東91薬師という、タイトル総なめの神社の乗りは、基本興ざめ
ご本尊は、不動明王で本堂の中央正面には由緒ある御仏像が安置されております。
本堂手前の六体のわらべ地蔵
弘法大師像と鐘楼堂
大日堂
慈母観音
「関東薬師九十一霊場」の第64番札所となる薬師如来の霊水
古来、水の神であります龍神様に願掛けをし、願いが叶った暁には、金色の光りを放ち天に昇天すると言い伝えられています。
仏師・広田佳胤氏が九州福岡で一心を込めて彫られました。一枚岩の石仏として造られた波切不動尊としては日本で最大の仏様です。人生の見えない荒波を切ってくださる、このお不動様は、右手頭上にかかげる利剣により一切の諸難を断ち、左手の綱により弱き人の心を強力につなぎ止め、後方紅蓮の大火炎により一切の悪を焼き尽くし、さらに、頭上金色の蓮華の上に乗せてまで、願主の人生を切り開き助けて下さるという、強い智恵と広大な慈悲の心をもたれた有り難い仏様です。
絢爛豪華な金乗院を離れ、400m程東にある奥の院地蔵堂は、ガラッと風景が変わります
開山が大同元年(806)とされ、伝承によると弘仁年間(810~824)弘法大師巡錫(じゅんしゃく)の折、霊夢により地蔵堂を祀(まつ)ったことに由来すると伝えられる。
地蔵堂は通称「ノゲの地蔵」と呼ばれており、大正年間の住職信浄和尚が10年余の勧進(かんじん)の末に着手し、昭和2年(1927)に落慶に至ったもので、総欅造りに切妻破風入母屋造で建築され、方形の上に軒と直角に切妻破風を四方から載せ、軒が中央で交わり前面に唐破風の拝殿が向いています。
外部には破風・懸魚・斗供の彫刻が施されています。
ヤクシソウのようだ
心休まる、立派な御堂でした
昼食の時刻となり、口コミで評価の高い「スーパーあさの直営食堂」へ来ました
到着は11:30だったのですが、すでに1時間待ちとのことで、道の駅 湯の香しおばら向かいにある「関谷もみじの郷」へ
石臼挽のそばは絶品だが、つゆがかなり甘い。天ぷらもサクサクに揚がっているが、コスパは?
3年前に訪れた塩原八幡宮へ
ここの池の水は、本当に透明度が高い
木陰なので光の反射が無いこともあろうが、鯉が空中に浮いて見える
長寿の水と親しまれる若水湧水が流れる若水神社は、神聖な雰囲気を感じます
国の天然記念物、とちぎ名木百選に指定されている逆杉は樹齢約1500年と推測され、屋久杉並みの樹齢だ
西側の雄杉が11.5m、そして雌杉が8mあり、樹高は約40mで、栃木県内最大の巨木と言われています。
塩原大根を使った、なめこおろし蕎麦と、高原大根のふろふき
濃甘つゆは、とろみの多い蕎麦湯で薄めていただいた
ここの池の水は、本当に透明度が高い
木陰なので光の反射が無いこともあろうが、鯉が空中に浮いて見える
創建は、平安時代の初期、約1200年前の807年のことと伝えられています。
その後1058年に、東北を治める鎮守府将軍であった源頼義と、その長男の源義家が、前九年の役の途中に戦勝祈願のため立ち寄り、戦後に再興したといわれています。
この源義家という人物は、自らを八幡太郎義家と称し、武勇に秀でてていたことでもよく知られ、後に鎌倉幕府を開いた源頼朝や、室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たる人物です。
宇都宮氏や小山氏等の祈願所としても崇敬されていたそうで、現在の本殿は、1798年に宇都宮藩主の戸田越前守により再建されたものだそうです。
国の天然記念物、とちぎ名木百選に指定されている逆杉は樹齢約1500年と推測され、屋久杉並みの樹齢だ
西側の雄杉が11.5m、そして雌杉が8mあり、樹高は約40mで、栃木県内最大の巨木と言われています。
ここ塩原八幡宮は、塩原七不思議の一つ、一夜竹の伝説の地とされています。
一夜竹とは、八幡太郎義家がここで戦勝祈願を行った際、しめ縄を張る竹を家来に探させたもののなかなか見つからず、式典を延期することにしたが、次の日の朝、杉の立木の中に見事な竹が出現し、すなわち一夜の間に現れた竹のおかげで、無事祈願を行うことができたという不思議な話。
日塩もみじラインに入り、奥塩原新湯温泉の「日本秘湯を守る会」渓雲閣で、「おもて那須手形」による無料日帰り温泉をいただく
庭園露天風呂は宿泊者専用とのことで、日帰りは内湯のみでしたが、ここより徒歩1分にある硫黄山より湧く源泉を直送100%掛け流しし、ph2.6と酸性の硫黄泉の中では低くピリピリ感がしない優しい硫黄泉です。さらに総硫黄が2mg/kg以上あれば硫黄泉と言われる所、総硫黄55.8mg/kgと全国でも10本の指に入る濃い硫黄泉だそう。また浴槽の中から温泉を掛け流しする事でお風呂の中の全部のお湯を、常に掛け流し状態にし新鮮に保つというこだわり。
鬼怒川へ降りる途中の白滝
豊臣秀吉が東征伐の折、滝の余りにも立派さに思わず、御馬を降りられ、滝の近くまで行かれた逸話から、「太閤下ろしの滝」
またこの場所があまりの難所のため馬から下りて通ったとの言い伝えがあり、これが名前の由来ともいわれています。
2段の流量も多めの滝ですこの後龍王峡へ行く予定が、陽が陰り始めたので出直しとします
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