6/28/2023

岩手県平泉旅行3(達谷窟毘沙門堂)

2023/6/28
岩手県西磐井郡平泉町平泉字北澤の達谷窟(たっこくのいわや)毘沙門堂 別當 達谷西光寺
達谷西光寺と言いつつ、鳥居が目立つ、達谷の靈窟に創建された毘沙門堂を根本道場とし、その御神域に建つ諸堂と、別當達谷西光寺境内の諸堂、及び鎮守社からなる神佛混淆の社寺で、昔のまま今に至る
ユキノシタ
オカトラノオ
一の鳥居
オオバギボウシ
二の鳥居

三の鳥居


昭和21年の火事の際、毘沙門堂と辨天堂は火に見舞われたが、杉の木が立ちはだかり、不動堂などを延焼から守ったという
およそ千二百年の昔、惡路王・赤頭・髙丸等の蝦夷(えみし、坂東以北の人)がこの窟に塞を構え、良民を苦しめ女子供を拐さらう等乱暴な振舞が多く、桓武天皇は、坂上田村麿公を征夷大将軍に蝦夷征伐の勅を下された。
延曆10年(801)、大将軍は窟に籠る蝦夷を激戦の末打ち破り、惡路王・赤頭・髙丸の首を刎ね、遂に蝦夷を平定した。
大将軍は、戦勝は毘沙門様の御加護と感じ、その御礼に京の清水の舞台を模して九間四面の精舎を建て、百八体の毘沙門天を祀り、鎮護国家の祈願所とし、窟毘沙門堂(別名を窟堂)と名付けた。
翌延曆11年(802)に坂上田村麿は別當寺として達谷西光寺を創建し、奥真上人を開基とした。
奥州藤原氏初代清衡公・二代基衡公は七堂伽藍を建立したと伝えられる。
文治5年(1189)源頼朝が奥州合戦の帰路、毘沙門堂に参詣され、その模様が「吾妻鏡」に記されているという。
京都の清水寺をまねて建立し、108体の毘沙門天をまつったのが始まりとされています。
お互いに向かい合う狛犬
建物内部は、撮影禁止です


前九年後三年の役で亡くなった敵味方の諸霊を供養する為に、陸奥守源義家公が馬上より弓張を以って彫り付けたと伝えられる大佛は、日本全國で五指に入る大像で、「北限の磨崖佛」として名高い。
元祿9年(1696)の錄には「大日之體(岩大日)」、その後「岩大佛」とされ、現在は「岩面大佛」と呼ばれている。

名は岩大日の錄から大日如來とする考えもあるが、寺では昔から阿彌陀佛の名号を唱えており、戦死者追善の伝說からも阿彌陀如來とするのが正しいと思われる。


クガイソウ(九蓋草、九階草、Veronicastrum japonicum、オオバコ科クガイソウ属の多年草)

蝦蟆ヶ池(がまがいけ)は神の池で、ここに棲む生きとし生けるものは、古来から辯天樣の御使であり、特にも虵(ヘビ)はその最も尊いものとされている。
コオホネ

達谷川や北上川を美しい浮嶋が行き来するのを、奧刕巡錫の慈覺大師円仁は、五色の蝦蟆(ガマ)の姿で、貧乏を齎す貪欲神が化けていると見破った。
大師は嶋を捕えて窟毘沙門堂の前まで引き、再び逃げ出さぬように一間四面の堂宇を建立し、蝦蟆を降伏する白虵、即ち宇賀神王を冠に頂く八肘の辯才天女を自ら刻して祀り、蝦蟆ヶ池辯天堂と名付けたと伝えられるが、円仁さんはそんなこともしたのか?


辯天堂内は撮影禁止だったので、かなり遠方から望遠レンズで



金堂は、古くは講堂とも呼ばれ、延曆11年(802)に達谷川対岸の谷地田に建てられたが延徳2年(1490)の大火で燒失した。
江戸時代には現在地に建てられた客殿が金堂の役割を果たしていたが、明治初年に廢佛毀釋で破棄されたが、昭和62年に再建に着手し、平成8年に完成した。
桁行五間梁間六間の大堂で、後世に技を伝える為、昔ながらの工法を用いて作られたそう
金堂内部が解放されていたが、撮影は禁止のため、外から
本尊は眞鏡山上の神木の松で刻まれた四尺の藥師如來

オオウバユリ(大姥百合、蕎麦葉貝母、Cardiocrinum cordatum、ユリ科ウバユリ属の多年草)
ウバユリの分布は本州中部までのようなので、オオウバユリとした
花が満開になる頃には葉が枯れてくる事が多いため、歯(葉)のない「姥」にたとえて名づけられたそう

ナガエミクリ(長柄実栗、Sparganium japonica Rothert、ガマ科ミクリ属の多年草)
森の奥に光る白いものをズームアップ
モリアオガエルの卵です
ユキノシタが見事に咲いている
東北の春は遅いので、植物にとっては関東の4月から6月が、一気に訪れる感じなのだろうか
シラネアオイの実
実がつくのは、丸い葉の上のようだ
ホタルブクロ
毘沙門堂脇にある古民家

キササゲ(梓(し)、木大角豆、楸、木豇豆、カミナリササゲ、カワギリ、ヒサギ、Catalpa ovata、ノウゼンカズラ科キササゲ属の落葉高木)
駐車場の脇に散った花が、すごいことに


この後中尊寺に行く予定だが、あまりに暑い(岩手なのに30℃)ので、薄着になるためホテルへ戻ると、20kmほど先の、岩手・宮城・秋田県境にある栗駒山と残雪が見える
お天気がもつことを祈るよ
旅行前に岩手出身のお隣さんから「前沢牛は食べておいで」と言われていた
ホテルのある一関の隣が平泉、その北が前沢、というわけで前沢まで繰り出した
炙りにぎりは、たまらないおいしさ
昼定食のお肉でも、十分美味しく頂きました
盛岡冷麺もセットで
岩手県西磐井郡平泉町平泉字柳御所の高館義経堂
高館は北上川に面した丘陵で、判官館(はんがんだて、ほうがんだて)とも呼ばれています。現在では、その半ばを北上川に浸蝕され狭くなっていますが、この一帯は奥州藤原氏初代清衡公の時代から、要害地とされていました。地元で判官館と呼ばれているのは、義経が判官の位にあったことに由来します。
高館からの眺望は平泉随一といわれ、俳人・松尾芭蕉が俳句を詠んだ場所でもあります。東にはとうとうと流れる北上川、束稲山(別名・東山)の眺望が広がります。この山は、かつて安倍頼時の時代に、桜の木を一万本植えたといわれる桜の名所でした。黄金文化華やかし藤原三代のころには、さぞや見事な花が山々や川面を彩ったことでしょう。
また西からは、かつてその流域が前九年・後三年の役の戦いの場となり、弁慶立往生の故事でも知られる衣川が北上川に合流しています。
丘の頂上には、天和3年(1683)、仙台藩主第四代伊達綱村公が義経を偲んで建てた義経堂があり、中には義経公の木造が安置されています。

義経堂の堂内に、本尊として祀られているのが、堂創建時に製作された木造の源義経公像です。凛凛しい武者姿の像は、極めて綿密に作られており、その技法には製作した時代より古い時代のものも見ることができます。

宝篋印塔(ほうきょういんとう)

奥州藤原二代基衡(もとひら)の後を継いだのは、嫡男である秀衡(ひでひら)
治承4年(1180)、義経の兄・源頼朝が平家打倒の兵を挙げると、義経は兄の元へ向かおうとする。秀衡は義経を強く引き止めたが、義経は密かに館を抜け出した。秀衡は惜しみながらも留めることをあきらめ、佐藤継信・忠信兄弟を義経に付けて奥州から送り出した。
文治3年(1187)、頼朝と対立して追われた義経を、頼朝との関係が悪化することを覚悟で受け容れるが、義経が平泉入りしてわずか9ヶ月後の文治3年(1187)10月29日、秀衡は死去してしまう
秀衡には6人の息子がおり、なかでも側室腹の長男国衡(くにひら)と正室腹の次男泰衡(やすひら)がこじれていたようだ
理解に苦しむのだが、長男国衡に自分の正室を娶らせ、次男泰衡と義理の父子関係にしてしまう
そして、各々異心無きよう、国衡、泰衡、そしてなぜか義経の三人に起請文を書かせた
「義経を主君として給仕し、三人一味の結束をもって、頼朝の攻撃に備えよ」と遺言して没した
義経追討に執念を燃やす頼朝の圧力に対し、のらりくらりと交わしていたが、文治5年(1189)ついに従兵数百騎で、義経の起居していた衣川館(高館)を襲撃し、義経と妻子、彼の主従を自害へと追いやってしまう
義経の妻は、源頼朝の乳母である比企尼の娘、子は4歳になる娘だという
泰衡は、義経の首を差し出すことで平泉の平和を図ったが、頼朝は逆に家人の義経を許可なく討伐したことを理由として、大軍を以って奥州追討に向かう
この道中、頼朝は宇都宮社(二荒山神社)で戦勝祈願をしている
奥州側は、国衡が阿津賀志山に城壁を築き、前面に二重の堀を設けて阿武隈川の水を引き入れ、二万の兵を配備して迎撃態勢を取った。泰衡自身は後方の多賀城の国府(仙台の東)にて全軍の総覧に当たった。
畠山重忠・小山朝政らの本軍は、阿津賀志山から大木戸に撤退した国衡軍に総攻撃を行い、出羽方面に脱出しようとした国衡は、追撃した和田義盛に討たれた。自軍の大敗を知った泰衡は多賀城から平泉方面へ退却した。
平泉も放棄した泰衡は、平泉館や高屋、宝蔵になどに火を放ち、平泉は炎上し華麗な邸宅群も百万の富も灰燼に帰した。平泉軍はわずか3日程度の戦いで敗走し、以降目立った抗戦もなく、奥州藤原氏の栄華はあっけなく幕を閉じた。頼朝が平泉へ入ると、主が消えた家は灰となり、人影もない焼け跡に秋風が吹き抜ける寂寞とした風景が広がっていたという。唯一焼け残った倉庫には莫大な財宝や舶来品が積み上げられており、頼朝主従の目を奪ったという
泰衡はさらに奥地に逃亡し、糠部郡から夷狄島(北海道)への渡航も企てたが、比内郡贄柵で郎従の河田次郎に殺害された。
平泉に戻った頼朝は、奥州支配体制を固めるため、葛西清重を奥州総奉行に任命し、鎌倉へ向けて帰還した。
毛越寺の大金堂円隆寺を見て「わが朝無双の荘厳なり」と言ったのは、この時のこと
また、達谷窟毘沙門堂にも参詣されたという(前出)
三代秀衡公が、宇治平等院の鳳凰堂を模して建立したという、無量光院跡
阿弥陀堂の柱間や翼廊の左右が鳳凰堂より大きく、平等院を超えようとした意欲が感じられます。建物の中心線は西の金鶏山と結ばれており、その稜線上に沈む夕日に極楽浄土をイメージした、浄土庭園の最高傑作といわれています。
二代基衡公の妻が建立したという観自在王院とともに、現在に残る姿を見てみたかったものです。ばかたれ泰衡
頼朝が率いる大手軍が、鎌倉を出発してから6日目に宇都宮、その10日後に白河関から奥州に入り、さらに9日で国見、途中で阿津賀志山を蹴散らしながら5日で多賀城、さらに10日で平泉、出陣から2か月後に平泉を後にしている
昔の人は、すごいなあ

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