6/28/2023

岩手県平泉旅行4(中尊寺)

2023/6/28
朝から厳美渓、達谷窟毘沙門堂を観光し、前沢で昼食後、高館義経堂、無量光院跡とまわり、ようやくメインの世界遺産、天台宗 東北大本山 関山 中尊寺
嘉祥3年(850)、比叡山の高僧慈覚大師円仁による開山
安倍氏・清原氏と受け継がれた奥六郡(岩手県中南部)を藤原初代清衡(きよひら)が伝領し奥州藤原氏が興ります。清衡公は江刺郡豊田館から衣川を南に越えて平泉に居を移し、長治2年(1105)、かつて関所(衣関)のあった要衝の地、関山に中尊寺を造営します
中尊寺(釈迦如来、過去);初代清衡、毛越寺(薬師如来、現在);二代基衡と三代秀衡、観自在王院;二代基衡の妻、無量光院(阿弥陀如来、未来);三代秀衡で、三寺院三世仏を完成させ、四代の出る幕ないやん&どんだけ金持ちやん?
遡って天喜5年(1057)当時鎮守府将軍であった源頼義と子の義家が、俘囚(捕虜)の長である安倍氏を討つ(前九年合戦)為、この地(中尊寺境内月見坂)で戦勝祈願した事が始まりとされる、八幡神社
神仏分離令により、八幡神社から八幡堂となり本尊を阿弥陀如来尊像とした
弁慶堂は文政9年(1826)の建立で、古くは愛宕堂と称していたが、義経・弁慶の木像を安置し、明治以降は弁慶堂と呼ばれるようになる
月見坂を中心に、参道ぞいに立ち並ぶ樹齢350年の老杉は、江戸時代に仙台藩によって植樹されたものだそう
向拝木鼻には獏や唐獅子、欄間には龍などかなり細かい彫刻が施されている

本尊は勝軍地蔵
左が弁慶、右が源義経

薬師堂は、藤原清衡公が建てた堂塔40余字建立の一字であった。その旧跡は現在の所ではなく、明暦3年(1657)に現在地に建立された。
1885年の改築で、本尊の薬師如来(やくしにょらい)、日光・月光菩薩(にっこう・がっこうぼさつ)と十二神将(じゅうにしんしょう)を安置し、和歌山県の熊野より飛来したと伝えられる熊野権現(くまのごんげん)の御神体を並び祀るというが、公開されていなかった
不動堂は昭和52年建立の祈祷堂です。御本尊の不動明王は1684年、仙台藩主伊達綱村公により天下泰平を祈願し新調されました。
不動明王様は、邪を破り、我々の過ちを正してくれる仏様で、少々厳しいお顔をされています。

ブタナ(豚菜、Hypochaeris radicata、キク科エゾコウゾリナ属の多年草)と思われる

鎌倉時代以降、大きな庇護者をうしなった中尊寺は次第に衰退し、建武4年(1337)の火災で多くの堂塔、宝物を焼失しました。しかし国宝建造物第1号の金色堂をはじめ、建築、絵画、書跡、工芸、彫刻、考古、民俗の各分野にわたる文化遺産が現在まで良好に伝えられ、東日本随一の平安仏教美術の宝庫と称されています。
その宝物殿と言える讃衡蔵は、奥州藤原氏の残した文化財3000点あまりを収蔵する宝物館で、平安期の諸仏、国宝中尊寺経、奥州藤原氏の御遺体の副葬品などが納められている
館内は撮影禁止
続く金色堂は、中尊寺創建当初の姿を今に伝える唯一の建造物で、天治元年(1124)に上棟されました。堂の内外に金箔を押した「皆金色」の阿弥陀堂です(屋根部分は解体修理の際に金箔の痕跡が発見できなかったために箔補てんは見送られました)。
4本の巻柱や須弥壇(仏壇)、長押にいたるまで、白く光る夜光貝の螺鈿細工、透かし彫り金具・漆蒔絵と、平安時代後期の工芸技術を結集して荘厳されており、堂全体があたかも一つの美術工芸品の感がします。
須弥壇の上にご本尊阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩、左右に3体ずつ地蔵菩薩が並び、最前列には持国天と増長天が破邪の形相でこの仏界を守護しています。この仏像構成は金色堂独特のもので他に例を見ない貴重なものです。
孔雀がデザインされた中央の須弥壇の中には、奥州藤原氏の初代清衡、向かって左の壇に二代基衡、右の壇に三代秀衡の御遺体と四代泰衡の首級が安置されています。血筋の明らかな、親子四代の御遺体の存在は世界にもほかに例がありません。
経蔵
「中尊寺建立供養願文」によると、当初は「2階瓦葺」でした。建武4年(1337)の火災で上層部を焼失したと伝えられていますが、おそらくは古材をもって再建されたものでしょう。当初のあざやかな彩りや飾りは長い歳月によってすっかり洗い流されていて、金色堂とは対照的な趣があります。
ご本尊騎師文殊菩薩(重文)と三方の経棚に納められていた紺紙金字一切経(国宝)は宝物館「讃衡蔵」に移され、新たな騎師文殊菩薩が安置されています。(重文)
経蔵から石段を登ると、関山天満宮
鎌倉時代、菅原道真公の第十四世孫・五条為視が勅令により奥州平泉に下向の折、出生した乙王丸(後の中尊寺経蔵別当第十三世行栄)に、京都北野天満宮より勧請した道真公の御真影と観世音菩薩をお祀りしている


金色堂を風雪から護るために、正応元年(1288)鎌倉幕府によって建てられたと伝えられる5間4方の堂で、古い記録には「鞘堂」とも記されています。「鞘」の字には「大切なものを保護するためにかぶせたり、覆ったりするもの」という意味があるからです。
金色堂解体修理(昭和の大修理)の際、現在地に移築されました。
近年の調査では、金色堂建立50年後ほどで簡素な覆屋根がかけられ、何度かの増改築を経て、現在の建物は室町時代に建てられたと考えられています。
大長寿院は、『吾妻鏡』によれば、二階大堂(大長寿院と号す)の高さは五丈(約15m)、本尊は三丈(約9m)の金色の阿弥陀像、脇には丈六(約4.8m)の阿弥陀像九躰が安置されていたといわれます。1189年(文治5年)、奥州征伐の折に二階大堂を見た源頼朝は、鎌倉に、これを模した永福寺を建て、奥州藤原氏と源義経の霊を弔いました。
現在の本堂は、1863年(文久3年)の再建。本尊は胎蔵界大日如来。
キツリフネ

白山神社は、中尊寺の北方を鎮守(ちんじゅ)するため、850年に中尊寺を開いた慈覚大師円仁が、加賀の白山をこの地に勧請(かんじょう)したと伝えられています。
円仁自らは、十一面観音を作って中尊寺の鎮守白山権現と号された
鳥居の正面に建つ、山門のような建物
これは神楽殿(舞台・楽屋・橋掛・鏡の間)で、欄干で囲まれた本舞台や鏡の間を繋ぐ橋掛かり、
鏡板に描かれた「老松」など見所の多い建物で、江戸時代末期の本格的能舞台の遺構として大変貴重な事から平成15年(2003)に国指定重要文化財指定
建武4年(1337)の火災での被害は出なかったようだが、嘉永2年正月(1849)の火災で、円仁作の十一面観音、橋爪五郎秀衡の持佛で運慶作の正観音、源義経の持佛で毘沙門天、神楽殿などを焼失
現在ある能舞台は、嘉永6年(1853)伊達藩主伊達慶邦朝臣から再建奉納された
ここの茅の輪は、一年中掲げられているそう
祭神は、伊弉諾尊、伊弉冉尊

白山神社を出て月見坂を下ってゆくと、最初にあるのが、廻りを池で囲まれた小島の上に建つ弁財天堂
本尊の弁財天十五童子(べんざいてんじゅうごどうじ)は仙台藩主伊達綱村公(だてつなむらこう)の正室仙姫(せんひめ)によって1705年に寄進されたもので、堂は1716年に建立されました。また堂内には千手観音菩薩二十八部衆(せんじゅかんのんにじゅうはちぶしゅう)も安置されています。

次は阿弥陀堂
1715年に再建され、本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)。蔵王権現(ざおうごんげん)を合祀(ごうし)し、大黒天も安置されています。また1845年に奉納された和算(わさん)の算額(さんがく)が堂内に掲げられています。
旧鐘楼
康永2年(1343)、金色堂別当頼栄の発願により鋳造された、径86cmの盤渉調の梵鐘。撞座は長い歳月にわたる打鐘により窪み、今この鐘が撞かれることはめったにない。
銘文には建武4年(1337)、山内の堂塔が火災により焼失した旨を刻し、奥州藤原氏以後の歴史を伝える貴重な資料でもある。
大日堂は、1802年の再建。前庭に建つ石造の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は1823年に造立された。
本尊は金剛界大日如来(こんごうかいだいにちにょらい)
峯薬師堂
境内の別峯に建っていましたが、度重なる野火にあい、1689年に現在地に移されました。讃衡蔵(さんこうぞう)に安置されている丈六(じょうろく)の薬師如来(やくしにょらい)は、もとはこの堂の本尊でした。堂の向かって右傍に建つ石造の宝塔(ほうとう)は12世紀のもので、重要文化財に指定されています。
現在の御堂は昭和57年の改築で、御本尊も薬師如来を中心に日光菩薩、月光菩薩の三尊とし、堂の改築を契機に昭和63年、前立本尊として仏師松尾秀麻師の謹刻になるものである。
ここの札所の女性は、参拝客の独り言をよく聞いており、いろいろと助言をくれるが、うるさくない
モリアオガエルの卵だと、教えてくれた
彼は、メスが現れるのをひたすら待っているそうだ
ウツボグサ

本堂の正面に建つ表門は、薬医門とよばれる形式の本坊表門です。
伊達兵部宗勝の屋敷門を移築したものと伝えられていますが、移築のいきさつは定かではありません。岩手県指定文化財
中尊寺というのはこの山全体の総称であり、本寺である「中尊寺」と山内17ヶ院の支院(大寺の中にある小院)で構成される一山寺院です。
中尊寺は天台宗の天本山であり、寺格は別格大寺、天台宗東北大本山です。
本堂は一山の中心となる建物で、建武4年(1337)火災により、多くの堂宇と共に本堂も焼失しましたが、明治42年(1909)に再建されました。古くから伝わる法要儀式の多くはこの本堂で勤められます。
本尊の両脇にある灯籠には、宗祖伝教大師最澄以来灯り続ける「不滅の法灯」が護持されています。
本尊は丈六の釈迦如来。像高約2.7m、台座・光背を含めた総高は5mに及ぶ尊像です。中尊寺の大壇主藤原清衡公が「丈六皆金色釈迦」像を鎮護国家大伽藍の本尊として安置したことにならい平成25年(2013)に造顕・開眼供養されました。
光勝院では、座禅体験、写経体験ができる

そういえば、めちゃ暑いが、雨の気配はない
地蔵堂の隣の庭園
地蔵堂
1877年の再建で、本尊は地蔵菩薩(じぞうぼさつ)。また隣に建つ祠(ほこら)には道祖神(どうそじん)が祀(まつ)られています。


中尊寺境内から、下に見えた神社へ向かう
赤堂稲荷大明神の社殿は、明治4年(1871)建造

詳細は、中尊寺でもわからないという

関山を後にする


中尊寺の入り口から見える場所に、武蔵坊弁慶大墓碑がある


弁慶に続き、源義経公妻子の墓
高舘で藤原4代泰衡の急襲を受けた義経が、妻の北の方と娘の亀鶴を殺し、自らも果てたという二人の墓が、金鶏山登山口脇にある
その隣には、千手堂
本尊は千手観世音菩薩のようだ
今日も一日、ご苦労さん

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