那珂川町東戸田の戸田城跡へ向かったが、馬頭観世音の前で出逢った人によると、「この山の上だけど、竹やぶで荒れていて行くのは大変だし、行っても何も無いよ」といわれ、挫折
代わりに馬頭観世音にお参り
そのすぐ隣は、看板も何もないが、Google Mapによると温泉神社らしい
少し南下したところに常円寺
常円寺のすぐ南に「岩谷内横穴古墳」
複数の横穴が存在していたと考えられているが、残っているのはこれ一つ
馬頭観世音前であった人に勧められた「熊野神社」
境内には升ノ内古墳があるのだが、那珂川町は「熊野神社全域付古墳」としているようだ
建久元年(1190)9月紀州牟婁郡熊野神社より分祀
竹やぶの参道を、上へ上へと昇る
ようやく本殿が見えてくる
主祭神:伊耶那岐命・伊耶那美命
そのすぐ隣は、看板も何もないが、Google Mapによると温泉神社らしい
少し南下したところに常円寺
常円寺のすぐ南に「岩谷内横穴古墳」
複数の横穴が存在していたと考えられているが、残っているのはこれ一つ
馬頭観世音前であった人に勧められた「熊野神社」
境内には升ノ内古墳があるのだが、那珂川町は「熊野神社全域付古墳」としているようだ
建久元年(1190)9月紀州牟婁郡熊野神社より分祀
竹やぶの参道を、上へ上へと昇る
ようやく本殿が見えてくる
主祭神:伊耶那岐命・伊耶那美命
本殿横の盛り上がりが、升ノ内古墳の前方後円墳らしいが、奥へは進めず
この名木は倒れ、切株だけが残されていた
境内社:八雲神社・稲荷神社
親鸞聖人蛇身済度御経塚
弥惣という者の娘おときは、邪険・嫉妬の思いを起こし、神田城の南にある川の淵に身を投げた。すると、おときは蛇身となり、身体を種々に変幻して往来を妨げたので、行き来する人もなかったという。時の片平城主義隆は、諸宗の名僧や修験者を集めて事態の収拾を試みたが、なお盛んに人々を悩ませていた。そのような折、親鸞聖人が当国を通られると聞き、聖人をお招きして事情を説明したところ、「小石を拾い集めておきなさい」と仰った。それを受けて城主義隆は仮小屋をしつらえ、そこに小石を集めて置いた。しばらくして聖人は仮小屋に来られ、一日一夜の間に一石に一字ずつ「浄土三部経」(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)を書き写し、法会を設けてお経塚を築かれた。その夜、城主義隆と弥惣のもとに、夢ともなく幻ともなくおときが麗しい姿で現れて、舞いながら「この度、貴き名僧のご教化により、あさましい邪道の苦を遁れ、浄土往生を遂げることができました」と告げたという
那須神田城跡も行ってみたが、Google Mapが正しくないようだ
大田原市に入り「湯津上温泉 やすらぎの湯」へ
「おもて那須温泉券」で、無料入浴
この名木は倒れ、切株だけが残されていた
境内社:八雲神社・稲荷神社
親鸞聖人蛇身済度御経塚
弥惣という者の娘おときは、邪険・嫉妬の思いを起こし、神田城の南にある川の淵に身を投げた。すると、おときは蛇身となり、身体を種々に変幻して往来を妨げたので、行き来する人もなかったという。時の片平城主義隆は、諸宗の名僧や修験者を集めて事態の収拾を試みたが、なお盛んに人々を悩ませていた。そのような折、親鸞聖人が当国を通られると聞き、聖人をお招きして事情を説明したところ、「小石を拾い集めておきなさい」と仰った。それを受けて城主義隆は仮小屋をしつらえ、そこに小石を集めて置いた。しばらくして聖人は仮小屋に来られ、一日一夜の間に一石に一字ずつ「浄土三部経」(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)を書き写し、法会を設けてお経塚を築かれた。その夜、城主義隆と弥惣のもとに、夢ともなく幻ともなくおときが麗しい姿で現れて、舞いながら「この度、貴き名僧のご教化により、あさましい邪道の苦を遁れ、浄土往生を遂げることができました」と告げたという
那須神田城跡も行ってみたが、Google Mapが正しくないようだ
大田原市に入り「湯津上温泉 やすらぎの湯」へ
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