昨日は明治里山の下草刈り作業で、ハイクは無し
今日は午後から下野市箕輪の箕輪城へ
みのわ古城公園に車を停めたのだが、公園の看板は無く、野球場が1面あるだけ
辛うじて水車堀にかかる車橋という表示がある
社殿の屋根下に、スズメバチの巣と思われる遺物が残っていた
箕輪城跡は下野市箕輪の姿川西岸の河岸段丘上に所在します
城は寛正3年(1462)に当時国分寺一帯の領主であった小山高朝によって築城されたといわれています
また、壬生胤業による築城とも伝えられますが、これは後に箕輪城が壬生氏の出城として使われたためではないかと考えられるそうです
城跡は南北 72m、東西 90mの回字形をした地形「館(箕輪城)跡には山つつじや藤の花が咲き乱れ、眼下に姿川が見下ろされ、小金井に向かう道の左右にはれんげの花が敷き詰められたように咲き、また関根井村と小金井宿が遥かに望まれ、苗代には青々とした稲穂が茂り、絶景である」
栃木県民のふるさと意識の高揚と、栃木県のイメージアップを目的として平成2年(1990)に選定したそうです
稲荷神社まで、関東ふれあいの道を行きます
途中にあった橘神社
脇の石柱には「名所 小金井八景 橘神社
稲荷神社まで、関東ふれあいの道を行きます
途中にあった橘神社
脇の石柱には「名所 小金井八景 橘神社
赤見堂 元禄年間5代将軍徳川綱吉公の時設定二百九十前」とある
橘神社の道向かいには、馬頭観世音とおぼしき石碑
関根井公民館脇の石碑
中に、雨引山の観世音も
稲荷神社
この地は昔から稲荷殿林 と呼ばれ、松林の中に神秘的な小高い台地あり、ここに笹原新田 を切り開いた人が慈眼寺 に伺いをたてて神社をまつりました。神社の創建は、万治2年(1657年)と言われています。江戸時代後期の安永年間には「寺久保稲荷大明神」と呼ばれていたが、安政年間には「藤森稲荷大明神」とも呼ばれていました。これらは、笹原新田の稲葉之助の嫡男勘兵衛・嫡子伊左衛門が京都伏見稲荷より社号を頂戴したものと言われています。
赤門には「正一位寺久保稲荷大明神」が掲げられている
ご祭神は倉稲魂命(うかのみたま)、ご配神は大山祇命(おおやまつみ)伊弉那岐命(いざなき)伊弉那美命(いざなみ)
境内社に、神明宮・天満宮・稲荷神社・大杉神社・厳島神社・日本武神社・児子神社がある
御神木と思われる
来た道を引き返し、箕輪城の森を望む
ひと汗かきました
関根井公民館脇の石碑
中に、雨引山の観世音も
稲荷神社
この地は昔から稲荷殿林 と呼ばれ、松林の中に神秘的な小高い台地あり、ここに笹原新田 を切り開いた人が慈眼寺 に伺いをたてて神社をまつりました。神社の創建は、万治2年(1657年)と言われています。江戸時代後期の安永年間には「寺久保稲荷大明神」と呼ばれていたが、安政年間には「藤森稲荷大明神」とも呼ばれていました。これらは、笹原新田の稲葉之助の嫡男勘兵衛・嫡子伊左衛門が京都伏見稲荷より社号を頂戴したものと言われています。
赤門には「正一位寺久保稲荷大明神」が掲げられている
ご祭神は倉稲魂命(うかのみたま)、ご配神は大山祇命(おおやまつみ)伊弉那岐命(いざなき)伊弉那美命(いざなみ)
境内社に、神明宮・天満宮・稲荷神社・大杉神社・厳島神社・日本武神社・児子神社がある
御神木と思われる
来た道を引き返し、箕輪城の森を望む
ひと汗かきました
0 件のコメント:
コメントを投稿