2025/3/18 (Tue)
氷見から南下して、富山県高岡市太田の雨晴(あまはらし)海岸の義経社1187年、義経一行が奥州平泉へ向かう途中、雨が降り出したため、弁慶が岩を持ち上げ、その陰で雨宿りをしたという義経岩(雨晴岩)
海岸には多くの観光客が
そのお目当ては
女岩の向こうは、富山湾の先の北アルプスの嶺
カメラで捉えるには、無理がある大絶景だ
フォッサマグナの西を縁取る、糸魚川静岡構造線(糸静線)の西に位置し、ユーラシアプレートの最東端という説もある
海岸から線路と道路を渡ると、道の駅と展望デッキがある
道の駅から少し南の丘の上に、展望スペースがあり、ここからは富山港の景色も見れる
男岩というらしい水蒸気の靄が取れて、本当にラッキー
さらに少し南下して、富山県高岡市伏木一宮の氣多(けた)神社
越中國総社・越中國一宮・延喜式内名神大社・旧社格は県社
養老元年(717)元正天皇の御代に勅願され、越中國から能登國が分離した頃、その神威を高めるため天平4年(732)に改めて能登国一宮気多大社より御分霊を勧請し、氣多大神(けたのおおかみ)として御鎮座たまわり越中國一宮氣多神社となる
寿永の末(1184)木曾義仲の兵火により、社寺は悉く焼失し、その後に再建
天文年間(1532~1555)越中争乱時期に、上杉氏の兵火により、一社一宇(愛染堂)を残し再び灰燼に帰した
永禄年間(1558~1570)社殿が再建されたが、江戸期の正保2年(1645)加賀前田家三代 前田利常は殊更に本社を崇敬し、荒廃していた本殿・拝殿等を再築した
昭和6年に国宝保存法により国宝に指定されたが、その後昭和25年に文化財保護法制定により国指定重要文化財となった
天平18年(746)第二代越中国守として着任した、従五位下大伴家持(やかもち)を祀る、大伴神社
境内のスギの隙間から、富山湾と北アルプスを覗く
越中総社跡伝承地
参道石段を下りる手前の「気多の杜 高志のみはらし」
気温が上がり、遠望が霞んできた
二上山を清源とした地下水が、氣多の杜深くを巡り御清泉として湧き出ており、昭和61年にとやまの名水「六十六泉」に指定された
天文年間(1532~1555)越中争乱時期に、上杉氏の兵火により、一社一宇(愛染堂)を残し再び灰燼に帰した
永禄年間(1558~1570)社殿が再建されたが、江戸期の正保2年(1645)加賀前田家三代 前田利常は殊更に本社を崇敬し、荒廃していた本殿・拝殿等を再築した
主祭神は、大己貴命(オオクニヌシ)と妻の奴奈加波比売命(ヌナカワヒメ)
配神は、菊理姫命(ククリヒメ、加賀国の白山や全国の白山神社に祀られる白山比咩神と同一神で、イザナギが黄泉の国でイザナギの姿を見てしまい、イザナギに追われた際に口論となり、そこにククリヒメが現れ仲裁をしたとされる)、事代主命(コトシロヌシ、オオクニヌシとカムヤタテヒメとの子)
永禄年間(1558~1569)に再建された本殿は、杮葺(こけらぶき)の三間社流造り昭和6年に国宝保存法により国宝に指定されたが、その後昭和25年に文化財保護法制定により国指定重要文化財となった
天平18年(746)第二代越中国守として着任した、従五位下大伴家持(やかもち)を祀る、大伴神社
境内のスギの隙間から、富山湾と北アルプスを覗く
越中総社跡伝承地
参道石段を下りる手前の「気多の杜 高志のみはらし」
気温が上がり、遠望が霞んできた
二上山を清源とした地下水が、氣多の杜深くを巡り御清泉として湧き出ており、昭和61年にとやまの名水「六十六泉」に指定された
富山県高岡市伏木古国府の、浄土真宗 本願寺派 雲龍山 勝興寺(しょうこうじ)
天保11年(1840)に建立された総門は、高さ8.7m、桁行5.5m、梁間3.1mの高麗門の国重文
国宝2棟、重要文化財10棟を保有し、「加賀前田家ゆかりの町民文化が花咲くまち高岡-人、技、心-」の構成文化財として日本遺産に認定されている越中における浄土真宗の触頭(ふれがしら)で、本山に準じる連枝寺院あるいは別院格の寺院としては、破格の規模と形式を誇る
享保18年(1733)建立の鼓堂は、総門をくぐった正面、掘割に面して建つ2層の入母屋造りの建物で、城郭の櫓(やぐら)に似た外観を持つ国重文
2階には時を告げる太鼓が保存されており、長年使用されず傷んでいたが、2021年に住民有志により修理された
約30,000㎡の広大な境内地は、勝興寺がこの地に移ってきた時と変わらず、伽藍は江戸時代に建立された建造物で構成され、近現代の構造物はほとんど存在しないため、境内は江戸時代そのものの景観が維持されてた
勝興寺の起こりは文明3年(1471)、本願寺八世蓮如上人が、越中の布教の拠点として、砺波郡蟹谷庄土山(現:富山県南砺市土山)に創建した土山御坊で、蓮如の四男蓮誓が置かれ、真宗王国越中における代表的寺院であると同時に、本願寺を支える連枝寺院の一つとして重要な働きをなしてきた
その後明応3年(1494)に蟹谷庄高木場御坊(現:南砺市高窪)へ移転、火災による焼失後、永正14年(1517)寺号を本山に申請したところ、佐渡にあった順徳天皇御願寺の勝興寺(殊勝誓願興行寺)を再興し、寺号を相続して「勝興寺」 と称した
永正16年(1519)には安養寺村(現:富山県小矢部市末友)に移り、蓮誓の次男実玄が安養寺城を建てた
戦国時代には、瑞泉寺と並んで越中一向一揆の中心勢力として猛威を振るい、越前朝倉氏、甲斐武田氏をはじめとする戦国大名や、本願寺、京都公家などと関係を深めていくようになるが、天正9年(1581)、第5代顕幸の時に石黒成綱に焼き討ちされた
天正12年(1584)現在地の高岡市伏木古国府に移り、藩政時代に入ると加賀藩前田家と関係を深めるようになり、越中における浄土真宗の触頭として、近代に至るまで繁栄した
明和6年(1769)建立の唐門は、国重文
前後の軒に唐破風が付く間口6mの門で、明治26年(1893)京都の興正寺より、2艘の北前船を利用して移建された
2014年まで行われた修復で、銅板葺きから檜皮(ひわだ)葺きに復元された
約30,000㎡の広大な境内地は、勝興寺がこの地に移ってきた時と変わらず、伽藍は江戸時代に建立された建造物で構成され、近現代の構造物はほとんど存在しないため、境内は江戸時代そのものの景観が維持されてた
これらの江戸時代の建造物のうち12棟が重要文化財に指定されてたが、200年から370年が経過し損傷、破損が著しい状態であった
1998年より国の補助を受け、江戸時代の姿を甦らせるべく大規模な修理が行われ、傷みのひどい箇所は半解体修理を行い、第1期に当たる本堂の修理が2004年に完了
1998年より国の補助を受け、江戸時代の姿を甦らせるべく大規模な修理が行われ、傷みのひどい箇所は半解体修理を行い、第1期に当たる本堂の修理が2004年に完了
2020年7月に総門の修理完了により、20年以上にわたる工事が完了
その後、境内の景観整備などを進め、修理総額は約70億円であったという
2022年に国宝に昇格指定となった本堂は、本願寺阿弥陀堂を規範とし、寛政7年(1795)加賀藩前田家の援助のもとに建立
奈良時代の越中国府があった場所といわれており、国守として大伴家持が赴任していた
約40m四方の大きさで、地方の寺院としては破格のサイズ
「実ならずの銀杏」は、勝興寺七不思議のひとつとされるが、単に雄樹なのでは?
宝永2年(1705)建立の式台門も、国重文
国宝の大広間の廊下から見た、国宝の本堂
中庭に立つ、御霊屋(中央奥)と御内仏(右手前)は、文化7年(1810)および元禄元年(1688)造営の国重文
国宝の紙本金地著色洛中洛外図屛風は、レプリカか?
ここで、室内写真撮影禁止の、小さな表示を見つけた。ごめん
総門から見る高岡市伏木の町
2022年に国宝に昇格指定となった本堂は、本願寺阿弥陀堂を規範とし、寛政7年(1795)加賀藩前田家の援助のもとに建立
奈良時代の越中国府があった場所といわれており、国守として大伴家持が赴任していた
約40m四方の大きさで、地方の寺院としては破格のサイズ
「実ならずの銀杏」は、勝興寺七不思議のひとつとされるが、単に雄樹なのでは?
文化2年(1805)建立の経堂は、国指定重要文化財
宝永2年(1705)建立の式台門も、国重文
江戸時代末期建立の宝蔵も、国重文
元禄5年(1692)建立の大広間及び式台は、国宝
現存する勝興寺の建築物で最も古く、大広間には、地方の寺院では珍しい、部屋の位の高さを示す天井が少し高い「上段の間」があり、公家衆の使者をもてなす場として用いられた
この部屋と手前の部屋の間の上部には、彫刻が施された欄間を備えて聖域との区別を図っている
国宝の大広間の廊下から見た、国宝の本堂
中庭に立つ、御霊屋(中央奥)と御内仏(右手前)は、文化7年(1810)および元禄元年(1688)造営の国重文
国宝の紙本金地著色洛中洛外図屛風は、レプリカか?
ここで、室内写真撮影禁止の、小さな表示を見つけた。ごめん
総門から見る高岡市伏木の町
勝興寺をあとにし、昼食探しに
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