5/11/2023

2023/5月の散歩(笠間)

2023/5/11
笠間の道の駅で昼食と思ったが、味の再確認で笠間芸術の森公園横の「そば切り一兵衛」
待たずに入店でき、ラッキー
常陸秋そばの石臼挽きせいろ
この腰とそばの香り、タレの味とよく合っており、やはり美味しい!
常陸秋そばの実を殻ごと挽いた田舎
腰が強すぎて、あごが疲れるほどうまい
そして蕎麦湯がこれまた最高
蕎麦屋のそばの「佐白山のとうふ屋
国道50号線を北に渡り、茨城県笠間市箱田の国見山 鳳台院 慈眼寺(通称、鳳台院)
山門(市指定文化財)は、江戸時代中期の総欅造り四脚門で、親柱は円柱
正面頭貫の中央に「国見山」の山額があり、天井には天女の絵が描かれている
日本遺産にも認定されている
「不許葷酒入山門」石柱も、山門と同時期のもののようだ
葷(くん)=ニラやニンニクなど、臭いがきつく勢力がつきすぎるもの、酒(しゅ)=お酒で、どちらも修行の妨げになるため、山門をくぐることを許さず、だそうです
達磨石が拝殿前の広場にあるが、サンスクリット語のボーディダルマという、インド人の仏教僧のことだという
拝殿は屋根の修理中で拝めず

別名「シャクナゲ寺」とも呼ばれる境内には、2万本のシャクナゲが植えられているという
永久年間(1113∼ 1118)に、片庭の国見山の麓に禅寺が建てられた。その後、争乱のため廃寺になったが、相州小田原(神奈川県小田原市)の海蔵寺学僧、竺翁和尚(ちくおう えんぶ)が再興した
坂道を登ると、世界最大級と呼ばれるほど大きな達磨大師の像

壁に向かって9年間、面壁九年という手足が腐るほどの修行をして高いさとりを開いたとされる

達磨大師大仏の隣は、笠間観音堂で、新坂東三十三観音の33番札所

その隣は、達磨山 大願寺の仁王門
鳳台院の末寺ではないようだが、同じ管理下のようだ
広々とした境内に、拝殿と五重塔



1998年に完成したという、総カナダ桧造りの五重塔は、実物は貧弱
仏舎利が安置されているので「お仏舎利奉安の五重の塔」とも言われている
達磨大師の眼力の方が勝る

大願寺前の石楠花庭園を散策
まだ蕾はあるものの、山全体として盛りを過ぎてしまったようだ


低木は全て石楠花なのだが



シダレザクラは、実をつけていた
大願寺から鳳台院へ戻り、本堂裏手にそびえる釈迦如来大仏は、令和元年生まれの4歳

達磨大師大仏と釈迦如来大仏に五重塔、さらに銅葺きの屋根に改装中の本殿
どういう経営なのか、はっきり言って怪しい
笠間県立自然公園に向かい、佐白山への山道の中ほどにどっしり居座る「大黒石」
むかしむかし、佐城山に大きなお寺がありました。名を「三白山正福寺」といい、お堂や三重の塔などの建物がたくさん山の中に建てられていました。また、百の僧坊があってお坊さん達は熱心に修行していました。
同じころ北の山には、三百の僧坊を待つ徳蔵寺があって大きな力を持っていました。この二つのお寺は同じなかまのお寺でしたが、勢力をのばすために何回も争いを起こしてしまいました。そしてついに、僧兵というお坊さん達が武器を持って戦いとなってしまいました。
ある日、徳蔵寺の僧兵が大勢笠間へせめこんできました。不意をつかれた正福寺の僧兵たちは、むかえうちましたが力およばず、しだいに佐白山のいただき近くまで追いこまれてしまいました。「笠間勢はもうすぐ終わりだぞ、それあとひとおしだ。」「それ、者どもいっきにせめこめ。」
勢いにのった徳蔵寺勢は、細い山道いっぱいにせめこんでいきました。
その時、いただき近くにあった小山ほどの大きな石が、突然ゆっさゆっさと揺れ動き出し、みるみるはげしくなって、ついにごろんごろんと大きな音を立てながら転がりだしたのです。
せめ登っていった徳蔵寺勢は、この石の下じきになったり、つぶされそうになったりしたので、ちりじりになってにげ出しました。僧兵たちは、この石のために戦いの気力をなくして北の山に引き上げてしまいました。
負けてしまったかと思った正福寺勢は、あやういところでこの石のおかげで徳蔵寺勢をしりぞけことができました。大きな石は、佐白山の途中まで転がり、ぴたりと止まりました。
実は、佐白山は、この戦いの前には山のいただき近くには二つの石があったのです。大黒様の形の石ときんちゃくぶくろの形をした石でしたが、転がった石はふくろの形をした石でした。そして不思議なことにいつのまにか大黒様の形の石は消えていたのです。
千人溜駐車場に車を停め、笠間城攻めの準備をしているところへ、別の車から一人の男性が近づいてきて「蚊がすごいんで、スプレーお貸しします」
一瞬怪しい人かと疑ったこと、ごめんなさい。マップもいただきご親切に感謝です



歩き始めてすぐに「大手門跡」
ウワバミソウ(蟒蛇草、蟒草、ミズナ、ミズ、Elatostema involucratum、イラクサ科ウワバミソウ属)
10分ほどで、本丸跡に到着
宇都宮頼綱の養子から常陸国笠間に入った笠間時朝(ときとも)が、16歳の頃より約16年の歳月をかけて承久元(1219年)に完成した、歴代の笠間領主の居城であった
18代笠間綱家が宗家の宇都宮氏に逆らったとして、宇都宮氏に攻められ滅亡した
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦い後、松井松平家が入り、その後小笠原氏が入ったが改易されて、ついで戸田松平家が入り、そして永井氏、外様大名の浅野氏が2代、井上氏が2代、本庄氏が2代、再び井上氏が3代入った後、牧野貞通入城以後廃藩まで牧野氏8代が居城し、明治6年(1873年)の廃城令により廃城処分とされ、建物は取り壊されたという
本丸から阿武山(205m)への道

天守曲輪に残る石垣

阿武山山頂にある佐志能(さしのう)神社へは、震災により立入禁止
笠間県立自然公園の一部で、城址であるとともに景勝地であり、「笠間稲荷と佐白山」として「茨城百景」および「いばらき森林浴の道100選」の一部に選定されているにもかかわらず、12年間も修復されないのは、納得がいかない
ということで


本殿は瓦と粘土で塀が作られている

反対側は、崩壊していた
山頂からの眺望は、茨城百景なの?
山を降りるが、いたるところに空堀跡が残る
タツナミソウ

大黒石を落としたと言われる、真言宗単立 佐白山 正福寺(観世音寺)は、佐白山の麓にある
坂東三十三観音霊場第23番札所


看板が隠れていたので



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