真岡市下籠谷の無量寿寺に車を停めさせていただき、向かいの東圓寺へ
常勝門という山門を通り、境内へ
本堂(薬師堂)は、享保4(1719)年に京泉鹿島戸観音堂から移設されたという
和の庭園がピンボケでもすばらしい
真岡市中心部へ移動し、市営駐車場から愛宕神社
行屋川沿いを歩き、般若寺
貞観4(862)年、慈覚大師円仁の開山という
常勝門という山門を通り、境内へ
本堂(薬師堂)は、享保4(1719)年に京泉鹿島戸観音堂から移設されたという
和の庭園がピンボケでもすばらしい
真岡市中心部へ移動し、市営駐車場から愛宕神社
行屋川沿いを歩き、般若寺
貞観4(862)年、慈覚大師円仁の開山という
小早川秀秋の死去後、浪人となっていた正成の後妻の福は、生活に困ってか、家康の嫡孫・竹千代(後の徳川家光)の乳母に募集し、春日局となり正成とは離縁した
福のおかげか、家康に召し出され徳川氏の家臣となり、美濃国内大名(1万石)、家康の孫・松平忠昌の家老として清崎城主、越後国糸魚川(2万石)と渡り歩いたが、越前国福井藩相続の決定に従わず、勝手に出奔・浪人したが、福との子である正勝の領内での蟄居を命ぜられ、下野国真岡藩(2万石)に封じられたのは寛永4(1627)年、翌寛永5年に死去。享年58(といったことは、書かれていない)
初めは浅草日輪寺の下寺の宝樹院にあり、1762年に真岡に輸送されてきたという
次は五行川を渡り、佛眼院 圓林寺
真岡市大根田の泉田山 千手院 長榮寺は、嘉祥3年(850)に慈覚大師円仁による創建ながら、現在では楼門のみが残る上の説明板では、観音堂もありそうだが、下では楼門のみとある
広い霊園に、1632年に再建された楼門だけがのこり、やたらと目を引く
今日の最後は、真岡市久下田の蟠松山 常楽院 全水寺
次は五行川を渡り、佛眼院 圓林寺
嘉祥元年(848)慈覚大師円仁により、真岡市横田(旧・二宮町横田)に開基
永禄4年(1561)守護職宇都宮広綱と真岡城主芳賀左衛門高定により、現在地に移転
真岡市大根田の泉田山 千手院 長榮寺は、嘉祥3年(850)に慈覚大師円仁による創建ながら、現在では楼門のみが残る上の説明板では、観音堂もありそうだが、下では楼門のみとある
広い霊園に、1632年に再建された楼門だけがのこり、やたらと目を引く
今日の最後は、真岡市久下田の蟠松山 常楽院 全水寺
嘉祥年間(848~851)に慈覚大師円仁により草創され、正長元(1428)年、青蓮院宮尊鎮法親王による開基と伝わる
薬師堂の屋根は、傷みが激しい境内に不思議な木が
カナメモチ属のオオカナメモチではないかと思うが
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