那須ゴンドラ山頂では、約3万本のゴヨウツツジの群生が、花の見ごろを迎えているということで、Mt. Jeansスキー場へ
ゴヨウツツジは、毎年5月に那須御用邸で白い花を咲かせ、当時の皇太子ご夫妻はこの純白のような純真な心を持った子供に育ってほしい、との願いを込め一人娘の内親王敬宮愛子殿下のお印としたという花で、てっきり「御用躑躅」かと思いや「五葉躑躅」と書くそうです
ゴヨウツツジは、毎年5月に那須御用邸で白い花を咲かせ、当時の皇太子ご夫妻はこの純白のような純真な心を持った子供に育ってほしい、との願いを込め一人娘の内親王敬宮愛子殿下のお印としたという花で、てっきり「御用躑躅」かと思いや「五葉躑躅」と書くそうです
那須エリアでは「ゴヨウツツジ」と呼んでいますが、日光エリアでは「シロヤシオ」
御用邸つながりを重視するか、栃木県花のヤシオツツジつながりを重視するかの違いか?
などと考えているうちに山頂に到着
曇り空の中、茶臼岳
朝日岳などが見渡せる私は「シロヤシオ」派なので、そう呼ぶことにします
花言葉は「上品」「愛の喜び」だそうで、実に上品且つ清楚な花です
蕾もたくさん残っているので、もうしばらくは楽しめそう
花の匂いがほとんどないのも、これだけの大群を散策する大事な要素
茶臼の頂上を入れてほしかった
眼下に広がる那須野が原を見ながら、早々のおにぎりタイムゴンドラ山頂から、羅紗門沢へ向かい、階段を降りて行きます
今回初見となる、サラサドウダン(更紗灯台、更紗満天星、フウリンツツジ、Enkianthus campanulatus、ツツジ科ドウダンツツジ属の落葉低木)の蕾の状態
説明書きの二行目「直径20cmに及ぶ巨大なゴヨウツツジが群生しています」そんな大輪のシロヤシオがあるのか、不思議に思いながら、山を下ります
シロヤシオのトンネルを、次々とくぐります
気付きました!樹径が20cmですね!
階段を降りると、左に北湯(北温泉)、右に清水平
一面が真っ白な花に包まれた山道を歩くのは、気分が良いものです
朝日岳
茶臼岳も、時折姿を見せてくれます
これまた初見の、マイヅルソウ(舞鶴草、Maianthemum dilatatum、スズラン亜科マイヅルソウ属の多年草)は、山地帯上部から亜高山帯の針葉樹林に多く群生するという
この後、もう少し日当たりの良い場所で、もう少し良い写真が撮れました
タチツボスミレ先ほどの分岐から約1km、羅紗門沢から中の大倉尾根道まで登ってきました
最初から最後まで、白い花の木は全てシロヤシオ
中大倉山展望台からの那須連山
関東平野の北端
黄金のゴヨウツツジと呼ばれる木
まだ蕾が多いですが、他よりも黄色味が強い蕾
花びらの根元に、赤い紋があるようです
こちらが普通のシロヤシオ
真っ白です
展望台からゴンドラ山頂駅に向かいます
ブナの木だと思います
大型レンズを抱えた写真愛好家と、何人かすれ違いました
今回は、接写に強いEF28-135 f3.5-5.6 ISレンズです
初見の、ヤマタイミンガサ(山大明傘、タイミンガサモドキ、Parasenecio yatabei、キク科コウモリソウ属の多年草)マイヅルソウが地面を覆っていて、人に踏まれまくっています
道の端で、花をつけています
群生
しまった!葉の形がわからず、同定不可能のスミレ
これも初見の、ユキザサ(雪笹、オニユキザサ、ササナ、アズキナ、スズメユリ、Maianthemum japonicum、ユリ科またはキジカクシ科マイヅルソウ属の多年草)
キランソウ
ごくらく気分の山歩きでした
ゴンドラを降りて那須ロープウェイの方に向かう途中、サラサドウダンが、あちらこちらで赤い花を開いている
北温泉方向に駒止の滝があるので、散策してみる
このエリアは、那須御用邸の敷地でしたが、平成の明仁天皇(当時)の御意向により、那須御用邸の約半分にあたる美しい森林を国民に開放され、平成23年5月に那須平成の森として開園したそうです
アオダモ(青梻、コバノトネリコ、アオタゴ、Fraxinus lanuginosa f. serrata、モクセイ科トネリコ属の落葉広葉樹)
余笹川の美しい渓谷
駒止の滝(駒ヶ滝)はとちぎの景勝百選
落差は約20mの直瀑の滝ですが、滝に近づくことはできません
ミツバツツジ(三葉躑躅、Rhododendron dilatatum、ツツジ科ツツジ属の落葉低木)じゃないかな?
観瀑台から北温泉の下見に出かける
あった、25m級の温泉プール
これも初見の、キバナウツギ(黄花空木、Weigela maximowiczii 、スイカズラ科タニウツギ属の落葉低木)?
余笹川の脇にある北温泉は、天狗風呂で有名
宿泊は、江戸部屋、明治部屋、昭和部屋が選べるが、今は素泊まりのみのようだ
スカシタゴボウ?
知ってる!ミズヒキの春の葉だ
茶臼岳(左1,915m)と朝日岳(右1,896m)
左が黒尾谷岳(1,589m)、中央が櫛ヶ峰(1,638m)、すぐ右が南月山(1,776m)
南は雲海で展望はきかず
殺生石への遊歩道の途中に盲蛇石(めくらへびいし)がある
採取した湯の花は、お土産として販売され、家庭用入浴剤第一号なのではないか
遊歩道をさらに進むと、手を合わせた地蔵がずらりと並ぶ、教傳地獄(きょうでんじごく)
ミツバツツジ(三葉躑躅、Rhododendron dilatatum、ツツジ科ツツジ属の落葉低木)じゃないかな?
観瀑台から北温泉の下見に出かける
あった、25m級の温泉プール
これも初見の、キバナウツギ(黄花空木、Weigela maximowiczii 、スイカズラ科タニウツギ属の落葉低木)?
余笹川の脇にある北温泉は、天狗風呂で有名
宿泊は、江戸部屋、明治部屋、昭和部屋が選べるが、今は素泊まりのみのようだ
スカシタゴボウ?
知ってる!ミズヒキの春の葉だ
ロープウェイ駅を過ぎ、行き止まりの峠の茶屋まで行ってみたが、得るところなく引き返し、殺生石の手前の展望台
茶臼岳(左1,915m)と朝日岳(右1,896m)
左が黒尾谷岳(1,589m)、中央が櫛ヶ峰(1,638m)、すぐ右が南月山(1,776m)
南は雲海で展望はきかず
さらに下って、殺生石(せっしょうせき)
硫黄臭が漂う石の河原殺生石への遊歩道の途中に盲蛇石(めくらへびいし)がある
昔、五左衛門という湯守が冬に備えて山で薪を採ってきた帰り道。殺生石の付近で一服していると、人の背丈を超えるような大きな蛇を見つけた。だがその蛇は目が白く濁っており、明らかに目が見えていない。おそらくこのままでは冬を越すことは出来まいと考えた五左衛門は、辺りの枯れ枝やすすきで小さな小屋を仕立ててやった。
翌年の春、五左衛門は盲目の蛇のことが気になって、早々に河原にやって来た。しかし蛇はどこにも見当たらず、その代わりに不思議な光景があった。小屋に仕立てた枯れ枝やすすきがキラキラと輝いていたのだった。湯の花がそれらに付着していたのである。これを見て五左衛門は湯の花の作り方を悟り、やがてこの製法を皆が真似て作るようになった。そして人々は、五左衛門の優しい心が神に通じて湯の花作りを教えたのだと信じ、また盲目の蛇に対しても感謝の気持ちを込め、蛇の鎌首に似た巨石を“盲蛇石”と名付けて後世に伝えたという。
蒸気の噴き出す場所に木や草を置き、それに湯の花の結晶を付着させるというやり方で、湯の花の採取は昭和18年まで続いたそうだ採取した湯の花は、お土産として販売され、家庭用入浴剤第一号なのではないか
遊歩道をさらに進むと、手を合わせた地蔵がずらりと並ぶ、教傳地獄(きょうでんじごく)
後醍醐天皇の御代の頃、奥州白河の五箇村に蓮華寺という寺があった。そこに預けられていたのが教伝という小僧。相当な悪童であったが、やがて28才の時にこの寺を継いで住職となり母親と共に暮らすようになった。
建武3年(1336年)のこと。教伝は友人らと那須の温泉へ湯治に行くこととなった。ところがその日の朝、旅支度も出来ていないにもかかわらず、母親が朝飯を勧めたのに腹を立て、膳を足蹴にしてそのまま出立してしまった。
数日ほど逗留していた教伝らは、殺生石の近くを物見遊山に訪れた。出かける時には晴れ渡っていたが、突然荒天となると雷鳴が轟き、いきなり地面が割れて熱湯が吹き上げてきたのである。友人らは慌てて逃げ出したが、教伝だけは一歩も動けず、そこに留まったままである。そして友人らに向かって「俺はここに来る前、母の作った朝飯を足蹴にした。その天罰を受けて俺は火の海に落ちていくのだ」と叫んだ。友人らは悶絶する教伝を何とか助け上げたが、既に時遅く、腰から下が炭のようになって死んでしまっていた。それからこの辺りは泥流が沸々と湧き上がり、さながら地獄の様相であったという。
ひときわ大きな教伝地蔵は、こうも伝えられている教伝は那須の人とあり、薪を母と共に拾いに行った時に飯の支度が遅れたことに腹を立てて母を蹴り倒し、その帰りに天罰に遭ってしまう。友人が助けようとしたがそのまま地獄に呑み込まれて死んだとされる。またその場へ行って「教伝甲斐なし」と言うと、たちどころに熱湯が湧き出ると記されている。
この教伝地獄は、有志がかつての地獄のあったとされる場所に地蔵を建立し、供養と共に親不孝の戒めを示すものとした。現在の地蔵は2代目に当たるという。
遊歩道の先に、殺生石がある付近一帯は硫化水素、亜硫酸ガスなどの有毒な火山ガスが絶えず噴出しており、「鳥獣がこれに近づけばその命を奪う、殺生の石」として古くから知られた名勝であった。松尾芭蕉も訪れ、『おくのほそ道』にその様子が記され、「石の香や 夏草赤く 露暑し」と詠んだ
2022年12月7日には、殺生石の近くでイノシシ8頭(成獣3頭、幼獣5頭)の死骸が見つかったという
おくのほそ道の風景地の一つとして国指定名勝とされる
2022年3月5日に殺生石が二つに割れた
人為的ではなく、自然崩壊だとされている
殺生石から山側に、温泉(ゆぜん)神社への登り口がある
延喜式内社だが、荘厳さは少ない
観光地ゆえの営業方針のせいかもしれぬ
拝殿内部
神殿
境内社の九尾稲荷神社には、こんな話がある
おくのほそ道の風景地の一つとして国指定名勝とされる
2022年3月5日に殺生石が二つに割れた
人為的ではなく、自然崩壊だとされている
殺生石から山側に、温泉(ゆぜん)神社への登り口がある
延喜式内社だが、荘厳さは少ない
観光地ゆえの営業方針のせいかもしれぬ
拝殿内部
神殿
境内社の九尾稲荷神社には、こんな話がある
平安時代末期、鳥羽上皇が病に伏せるようになり、朝廷の医師にも原因が分からなかったが、陰陽師・安倍泰成が、上皇の寵姫であったとされる玉藻前の仕業と見抜く。安倍が真言を唱えた事で玉藻前は変身を解かれ、九尾の狐の姿(『玉藻の草子』では二尾の狐として描かれている)で宮中を脱走し、行方を眩ました。
下野国那須野で、既に九尾の狐と化した玉藻前を発見した討伐軍は、すぐさま攻撃を仕掛けたが、九尾の狐の妖術などによって多くの戦力を失い、失敗に終わった。
九尾の狐は、那須野領主須藤権守貞信の夢に娘の姿で現れ許しを願ったが、貞信はこれを狐が弱っていると読み、最後の攻勢に出た。そして三浦介義明が放った二つの矢が脇腹と首筋を貫き、上総介広常の長刀が斬りつけたことで、九尾の狐は息絶えた。
その後、九尾の狐は巨大な毒石に変化し、近づく人間や動物等の命を奪うようになった。そのため村人は後にこの毒石を『殺生石』と名付けた。
殺生石が、左手に見える九尾稲荷神社
推定樹齢800年の五葉松は、那須町指定の天然記念物で、とちぎの名木百選
参道にあったサラサドウダンは、花の先端だけ赤みを帯びる
松尾芭蕉の詩の石碑
殺生石側から入ったので、正面の参道を降りて行く
きちんと整備された石の階段は、観光地では必要なのだろう
御神木はミズナラで「生きる」と命名されている
那須余一奉納の三の鳥居
「平家物語」にはこのように記載されています。
『南無八幡大菩薩、別しては吾が国の神明、日光権現宇都宮、那須温泉大明神、願わくはあの扇の真中射させてたばえ給え・・・』
源平合戦の屋島の戦いで、扇の的を射て名声を上げ、20万石を頼朝公から賜わり、那須郡の総領となった那須余一(後の与一)は、凱旋の後その神恩の深いことを謝して、大社殿を寄進してその誠を表わしました。その他鏑矢、蟇目矢、征矢、桧扇を奉納しました。三番目の鳥居も余一が奉納したものです。
水琴窟は、朽ち壊れている
境内社の一つの愛宕神社への階段は、全く観光地化されていない
石段の脇にある、愛宕福神水という湧水の採水場は、有料施設です
境内社の見立神社
一の鳥居から見下ろす那須野が原は、大海原のようにも見えます
一の鳥居からの参道
一の鳥居脇には、こんばいろの湯という足湯があります
今後のために、鹿の湯も下見をしました、上見か?
湯本散策マップ
お昼が速かったので、夕食も済ませて帰ることにしました
那須町寺子の、とんでもない山の中にあるFranklin's Cafe
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