11/07/2024

2024/11月の散歩(流山)

2024/11/06 (Wed)
小山市向野の手打ち蕎麦 永(とこしえ)は、民家の玄関から居間に通される感じ
11:30開店だが、それ以前に入店できた
粗挽そばは、北海道産のそば粉を使い、細切りの逸品
海老天おろしかけそばは、香り立つ海苔をのせた絶品
芋天は、すずほっくりという品種のサツマイモを、じっくりじっくり揚げたという、ケーキのようなお芋

サービスでいただいたそば茶プリンは、思わずお持ち帰りを注文しました
私用で故郷の流山市を訪れたので、流山市三輪野山の茂侶(もろ)神社
貞観2年(860)に三輪(みわ)神社と称し、大正7年(1919)に茂侶神社に改称
式内社論社で、旧社格は村社だという
三郷流山有料道路へ続く道路と、県道松戸野田線の流山バイパス交差点に位置しているが、静かな杜に包まれている
かつては、東に鹿島香取へつながる海があり、西には東京湾が深く入り込んだ海に挟まれた高台の上にあったと思われる、古代からの土地であろう
一の鳥居東には茂侶神社脇遺跡があり、ちょうど発掘調査が行われていた
鳥居正面南1kmほどのところでも、大規模な祭祀遺跡が発掘されている
1月8日のオビシャ(新年祭)において、八升の酒、八升の餅、八種類の野菜の熟饌等を神前に供え、鏡餅を氏子が引きちぎりあい、餅の割れ方によりその年の作柄を占っていたという「ヂンガラ餅行事」は、市の無形民俗文化財に指定されている
延喜式神名帳には、延長5年(927)に神社小社として「下総国葛飾郡二座(並小) 茂呂神社」と記載され、ここはその論社にあたるという
朱に塗られた六脚の二の鳥居は、貫(上から2本目の横木)が柱を貫通する、香取式鳥居かと思ったが、台輪という笠木(上の横木)と柱の間の円形の輪(黒塗り部)があり、笠木が上に反りあがっていることから、明神台輪鳥居と呼ぶのが正しいだろう
大和国城山郡三輪野山(奈良県)の麓に祭礼し、大物主命の分霊を祭るため、ここの地名も三輪野山という
第12代景行天皇の時代(4世紀前期から中期)に、1回目の東国平定を、息子である日本武尊に命じており、その後2回目は伊勢から上総国まで到達し、景行天皇55年に、東山道十五国の都督として、任地に赴く前に亡くなった父の彦狭島王に代わり、子の御諸別王(みもろわけのみこ)を派遣した
御諸別王の子孫である毛野氏の一族がこの地に住み、大和の三輪山に似ているこの丘陵地に、大物主命(大国主神、大己貴神)を祀ったのが創祀といわれる
ところで葦原中国の王、大国主神は出雲の国にいたはずだが、なぜ三輪山に祀られているのだろう?
拝殿屋根は、平成7年に張り替えられた、と上に記されている
神殿へは、廊下で繋がっている
神明造りの本殿に、別屋根で庇を設けている
三輪茂侶神社の運営は、諏訪神社の兼務社となっている

そこで、流山市駒木の諏訪神社へ
諏訪神社の創健は平安時代のはじめ、大和の国(奈良県)から天武天皇の皇子の高市皇子(たけちのみこ)の後裔が、この下総の大堀川のほとりの、森も水も豊かで肥沃なこの駒木の里を永住の地と定め、田畑を墾き、農業を営んで集落を形成したときに遡る
東漸の途次、深い御縁のあった信濃国諏訪大社より御神額をいただき、この地にお祀りしたのが創めで、第51代平城天皇の大同2(807)年という
「おすわさま」として親しまれ、私も初詣、娘のお宮参りや七五三などで、何度も訪れている
夕方の境内の凛とした空気が、厳かさを演出している
手水鉢だったのだろうか
隨神門から拝殿方向
祭神は健御名方富命(たけみなかたとみのみこと)で、日本三代実録には建御名方富命、古事記には健御名方神、続日本後紀には南方刀美神、神皇正統記には健御名方刀美神などと記される
健御名方富命は、伊勢の神宮に祀られる皇祖・天照大御神の弟神で、八岐大蛇退治で知られる素戔嗚命の御子神・大国主命と高志沼名河比売との間にお生まれになった神さまで、諏訪大社の祭神として祀られていることから、諏訪神、諏訪明神、諏訪大明神、諏訪南宮法性上下大明神、お諏訪さま等とも呼ばれる
三輪茂呂神社に祀られた大国主神の子供で、国譲りの際に諏訪に落ち延び封じ込められた健御名方富命がここに祀られており、古墳時代の出雲・大和が流山で繋がっているのも、またおかし
漂泊の俳人・小林一茶は、流山の商家・秋元三左衛門(俳号・双樹)のもとをたびたび訪れたことから、流山は一茶の第二のふるさとともいわれているそうな
学校で教えてくれても良さそうなのに
近代学園子育て都市として発展すさまじい故郷の土地で、色々な発見ができた一日でした

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