11/20/2024

東国三社旅行4(大杉神社)

2024/11/20 (Wed)
茨城県稲敷市阿波(あば)の大杉神社は、2024/10/02の東国三社巡りの帰路、立ち寄れなかったので、今回の房総までの移動途中で訪問
「鼻高天狗」と「烏天狗」が、鳥居の脇で出迎えてくれる
関東や東北地方に分布する、約670社を数える大杉神社の総本社
大杉神社の鎮座する場所は、現在の霞ヶ浦、常陸川、利根川下流域、印旛沼、手賀沼、牛久沼、鬼怒川下流域、小貝川下流域を内包する常総内湾に、西から東に向かって突き出すような地形のほぼ突端に位置していた
半島状地形であるが、西側でくびれた地形をしていたため、遠映としては島状の様子を呈していたため、安婆嶋(あんばさま)とよばれ『常陸風土記』にも安婆嶋と記されている
現在の地名の阿波(あば)の語源と思われる
「茨城の東照宮」とも呼ばれる、茨城百景の一つ
今日は小雨が降るため、輝きが少ないのだろうが、ミニ東照宮と言えなくもない
6世紀ごろ、千葉県中部から茨城県、埼玉県、東京都にかけての一帯を支配した、下海(下菟上国、しもつうなかみのくに)の一部であり、菟上国のもっとも重要な神社で、菟上国造の祀る神社のひとつであったという
その後北方から南下してきた一族が、鹿嶋・香取の両神社を築き、東岸域を支配した、つまり自分たちが先だというが、創建は神護景雲元年(767)と伝わる
神護景雲元年に大和国を旅立った勝道上人は、下野国二荒山をめざす途上でこの地に着くと、病苦にあえぐ民衆を救うべく、巨杉に祈念した
すると三輪明神(奈良県三輪の大神神社)が飛び移り、病魔を退散せしめたところから、「悪魔ばらえのあんばさま」と呼ばれ、やがて大杉大明神と称され
と神社は言うが、767年の勝道上人は補陀落山(男体山)登頂に専念しており、その余力はなかったのではないか?
可能性としては、菟上国と鬼怒川で繋がる下野国上三川で満願寺を開山しているので、そこと前後して三輪明神を分霊したかもしれない
それにしても勝道上人と大和国のつながりは薄く、「大和国を旅立った」「三輪明神が飛び移り」は、想像しがたい
主祭神は、倭大物主櫛甕玉命(やまとおおものぬし くしみかたまのみこと)、配祀は、大己貴命、少彦名命
ご神木は境内にある大杉3本で、社名の由来でもあるが、太郎杉は安永7年(1778)に焼失し、これは三郎杉
大杉神社の巨大な杉は、安婆嶋(あんばさま)と呼ばれ、常総内湾の人々の信仰の対象であり、内海の航路標識になっていたという
三郎杉の西には、大杉神社を御守護する別当寺として、延暦24年(805)に天台宗 龍華山 慈尊院 安穏寺(あんのんじ)が開基された、と大杉神社は言うが、勝道上人が建てたとすれば、こちらが先でしょ
または延暦15年(796)快賢阿闍梨が、伝教大師(最澄)による彫刻(明王)を持ち、たびたび反乱が起きる東国鎮護のために当地を訪れたと『利根川図志』はいう
ご本尊は、天竺の昆首羯摩作の弥勒菩薩だといい、快賢阿闍梨が最初の堂宇を建立した
文治5年(1189)東北から来た常陸坊海存(のちの源義経の家臣)またの名を清悦法師といい、天下泰平、国土安穏、五穀豊穣などをはじめ、村人の平和を祈り滞在したといわれている
その容姿は巨体、紫髭、碧眼、鼻高であり、天狗のようでもある
現在の本堂は明治11年(1878)に再建されたもの
以上をまとめるに、あくまで憶測だが、延暦15年(796)快賢阿闍梨が昆首羯摩作の弥勒菩薩を祀り病魔を退散させ、古来からランドマークだった大杉を祀り、そこに現れた天狗に似た常陸坊海存が合わさり、神仏分離で大杉神社と安穏寺となり今に至る
勝道上人は、たぶん関係ない





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