11/21/2024

房総旅行2(天津神明宮、誕生寺、清澄寺)

2024/11/21 (Thu)
江澤館をあとに、鴨川市天津の天津神明宮へ

神代のむかし、大国主命とともに日本を治めておられた八重事代主神は、天孫に国土を献ってのち、海路はるばる当地においでになり、東方鎮護の神として永くこの地にお鎮まりになったため、人々は宮殿を建て、庤(もうけ)明神(えびす様)と尊称した
その後、鎌倉に武家政治の基を開いた源頼朝公が、石橋山の戦いに敗れて安房の地に逃れてきたとき、源家の再興を伊勢の大廟に祈願され、みごと成就されたことにより、天下平定ののち、寿永3年(1184)当地に伊勢より神霊を勧請し、庤明神とともにお祀りされたのが「房州伊勢の宮」と仰がれる神明神社、つまり天津神明宮だ
ご祭神は、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)、豊受大神(とようけのおおかみ)、八重事代主神(やえことしろぬしのかみ、えびす様)、大山祇大神(おおやまずみのおおかみ)

本殿は落ち着いた感じ
見上げる山の頂上には、伊邪那岐大神と伊邪那美大神を祀る諾冉(なぎなみ)神社が鎮座するというが、昨日の雨で足場が悪いため、登頂を自粛した

早朝の神社訪問が、こんなにすがすがしいとは、今まで知らなかった
つづいて、鴨川市小湊の日蓮宗大本山 小湊山 誕生寺
宝永3年(1706)の建立で、宝暦年間の大火の際焼け残った、当山最古の建造物「仁王門」は県の有形文化財
承久4年(1222)2月16日に、安房国長狭郡東条郷片海の漁村で誕生したという、日蓮(にちれん)の生家は、明応・元禄の大地震により、蓮華ヶ淵という海中に没したという
その時、庭先から泉が湧き出し産湯に使った「誕生水」、時ならぬ時に浜辺に青蓮華が咲いた「蓮華ケ渕」、海面に大小の鯛の群れが集まった「妙の浦」という不思議な「三奇瑞」が伝えられているという
日蓮聖人は幼名を善日麿といい、12歳までこの地で暮らした。文永元年(1264)聖人は母梅菊の病を祈願し蘇生させる。延命した母梅菊はそれを記念し、「菩薩荘厳堂」を創建。その後直弟子日家上人が、建治2年(1276)10月、日蓮聖人生家跡に一宇を建立し高光山 日蓮誕生寺と称したのが始まり
日蓮宗の総本山は祖山といい、身延山 久遠寺だが、日蓮聖人一代の重要な遺跡及び宗門史上顕著な沿革のある寺院を霊跡とし、大本山の称号を用いている
その大本山とは、誕生寺(千葉)、清澄寺(千葉)、中山法華経寺(千葉)、北山本門寺(静岡)、池上本門寺(東京)、妙顕寺(京都)、本圀寺(京都)だという
日蓮聖人像を安置する「祖師堂」

本来、マダイは比較的深い層を回遊する魚であり、鯛の浦のような水深の浅い海域(水深10-20 m)に「根つき」になることはないというが、鯛の浦タイ生息地として、国の特別天然記念物に指定されている
鯛の浦でマダイが群れる原因は、現在でも科学的に解明されていないという
堂内の天蓋等の仏具類は、明治天皇の生母である中山慶子一位局や、大正天皇の生母・柳原愛子一位局による寄進だという(市指定有形文化財)
日蓮宗公式アプリ「合掌の証」で、まいる!たまる!もらう!参った
祖師堂建材は、江戸城改築用として、伊達家仙台藩の船が江戸へ運ぶ途中で遭難し、譲り受けたものだという

祖師堂の鬼瓦は、たたみ21畳分もあり、世界一の大きさだというが、2.1畳分の間違いだと思われる

金の鯛ほこ
ソテツの実?種?
ソテツとお寺、南房総っぽい
無縁墓地の最上段左手には、舟を垂直に立てたような形をした石塔が3基並んで建てられており、左右の2基は、戦国時代、安房国を中心に房総半島で勢力を誇った里見氏3代、中央の1基は里見氏麾下(きか)の有力武将正木(まさき)氏の供養塔だというが、墓地へは入らなかった(写真は別物)

誕生寺は、ツツジの花で、東国花の社 百ヶ寺でもある
ご幼像をお祀りする「誕生堂」
日蓮聖人が12歳になった時、勉学のため親元を離れ、房総随一の山へと登られた
我々も日蓮上人の足跡を追い、霧深い清澄山へ向かう
南房総国定公園に含まれる、鴨川市清澄の日蓮宗大本山 千光山 清澄寺
宝亀2年(771)素性不明の旅の僧(聖僧で不思議法師と呼ばれる)が、千光を発する柏の木で虚空蔵菩薩の仏像を彫り、その仏像の前で21日間修行をしたことに始まる
文久3年(1863)に建てられた仁王門
承和3年(836)天台宗 比叡山 延暦寺の中興の祖、慈覚大師円仁師がこの地を訪れ、その仏像の前で21日間の修行をし、それ以来、天台宗のお寺となり、栄えていた
誕生寺に続き、清澄寺もツツジで、千葉11番の東国花の寺
元和4年(1618)には、徳川秀忠の命により智積院の頼勢が入寺し、真言宗に改宗された
昭和24年(1949)日蓮聖人を輩出した寺として日蓮宗に改宗し、宗門直轄の大本山として現在に至る
右手前の観音堂は、安房国札三十四観音の第17番札所の、十一面観音を祀る

日蓮聖人像を祀っている祖師堂
摩尼殿(まにでん)は大堂とも呼ばれ、度重なる改修を繰り返し、現在の摩尼殿は17世紀後半のもの
少年日蓮が入山したのは、鎌倉時代の天福元年(1233)12才のとき
ここで修行に励んだ聖人は、さらに諸国で各宗の奥義を学んだ後、ここに帰山
鐘楼堂

建長5年(1253)日蓮32歳のときに、清澄山旭が森で立教開宗の第一声をあげ、日蓮宗の布教活動を始めたとされている



正保4年(1647)に創建され、天保8年(1837)に改修された中門は、県指定有形文化財

大くすのき

嘉禄元年(1157)北条政子が千日講を催し、宝塔・輪蔵が造立されたそうだが、この宝篋印塔とは、別物のようだ

戦時中に没収されずに済んだのであろう梵鐘は、明徳3年(1382)と刻まれている
境内の一部である旭が森は、富士山頂を除き、本土で一番早く初日の出が拝める場所(犬吠埼より早い)だという
妙見山の中腹の、標高300mを超える清澄寺にも、ツワブキが咲いている

高さが約47m、幹周りは約15mもある、樹齢およそ800年という「千年杉」は、国の天然記念物
台風等の影響を受け、かなり傷んでいるようだ




ここをStart地点とする『関東ふれあいの道』千葉県・6-22「モミ・ツガのみち」
秋の七草の1つ、フジバカマ
サクラの花が咲いている

アザミは、よくわからない
ベニバナボロギクかな


清澄寺の次に訪れたのは、パークウェルステイト鴨川
早朝から動いたので、そろそろ昼食としよう

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