9/12/2024

青森旅行5(三内丸山遺跡)

2024/9/12 (Wed)
浅虫温泉から青森市内に戻り、国の特別史跡の縄文時代(前期中頃から中期末)の大規模集落跡「三内丸山遺跡」(さんないまるやまいせき)へ
開園直後なので、館内は静かで、無料ガイドツアーに参加した
八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端に位置し、標高は約20mで、遺跡は約40haの広大な範囲に広がっている
この地に遺跡が存在することは江戸時代から既に知られており、多量の土偶が出土したことが記録されているほか、三内の村の古い堰が崩れた場所から、瓦や甕、土偶のような破片が見つかったことが記録されていた
1992年に県営野球場を建設する事前調査として、本格的な調査がおこなわれ、500棟を超える堅穴住居跡、32m x 10mの大型堅穴住居跡、直径約1mの栗の柱が6本などが見つかり、既に8割がた完成していた1,3塁側スタンドなど、着工していた野球場建設を全て中止し、遺跡の保存を決定した
三内丸山では幅10m以上の大型竪穴建物跡がいくつも出土しているが、中でも最大なものは長さ32m、幅10mのもので、内部の見学も可能
この建物の柱は29本だというが、なんか半端な気がする
八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端に位置し、標高は約20mで、遺跡は約40haの広大な範囲に広がっている
祭祀用に使われたと思われる六本柱建物
私見だが、祭祀や物見的な物ではなく、漁に出た仲間への帰り場所を示す、灯台だったのではないだろうか
柱穴の間隔、幅、深さがそれぞれ4.2m、2m、2mで全て統一されているという
4.2mというのは35cmの倍数であり、35cmの単位は他の遺跡でも確認されており、「縄文尺」とも言うべき長さの単位が、広範囲にわたって共通規格として共有されていた可能性が考えられるというが、では2mの方はどう解釈するのか
これは六本柱建物跡の発掘時の場所で、穴の中に栗の木の一部が残っていた(これはレプリカで、実物は保存館にある)
穴自体は樹脂で保護されているという
直径約1mのクリ柱本体にも、腐食を防ぐため周囲を焦がすという技術が施されており、長い間腐食を防ぐことのできた一因となっているという
これだけ大きなクリの木はなかなか存在せず、当時の気候と似通った場所を世界中探し、ロシアにあった大きなクリの木を輸入して、復元したという
ツアーガイドは80歳を超えた男性
柱は2度ほど内側に傾けて立てられていたらしい
現代の内転(うちころび)と同じ技法で、当時この様な技術は、どう得たのだろうか?
巨木の伐採、運搬、腐食防止加工、立ち上げなど、この建造物だけでも謎が多い
生活廃棄物を捨て、土をかぶせ、幾重にも土器が層をなしているという
土器・石器の他に、土偶やヒスイ、小型土器などまつりに関係する遺物が、たくさん埋まっていたという
展示場に戻り、出土物を見て回る
板状土偶は、地面に置くのではなく、立てかけるか、地面に差し込んだのだろう
展示即売会ではなく、全て出土品で、1,958点が国の重文指定を受けている
縄文人は狩猟型で定住していない、という常識を覆す遺跡だ
出土した植物解析から、クリを栽培していたこともわかり、農耕の証拠だというが、栽培したかどうかは、どうやってわかるのだろう
子供用の墓地、大人用の墓地がそれぞれ築かれ、ごみ捨て場もあったというから、定住していたことは間違いないであろう
当時の気温が現在より高く、そのため海が近かったとのことだが、現代の地球温暖化も、地球のサイクルによるところが大きく、CO2悪役論は、どこかの会社か政治の陰謀論かもしれない






三内丸山遺跡をあとにして一路恐山へ向かう途中、浅虫水族館内の食堂で昼食、と思ったら、入場券を買わないと食堂が利用できないので退散
少し先の平内町土屋鍵懸の「ほたて広場」横の「ひらないまるごとグルメ館」
陸奥湾ホタテ殻付き塩ラーメンは、大したことなかった
ホタテ&なめこ・オクラの和風おろし醤油パスタは、もっとがっかり
食後は陸奥湾の東側(下北半島の西岸)を北上

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