2/22/2023

2023/2月の散歩(小山)

2023/2/22
小山への病院帰りに、中華の鉄人のお店「好好」
酸辣湯麺は、すっぱ旨
本日のランチは、塩気の少ないおかゆは、
北京ダックとしか思えない味の鶏肉が、よく合う
大き目餃子を追加したが、6個で300円
デザート付き、さらにコーヒーまでごちそうになりました
Sheraton Hotel立ち上げ時の話、料理総長としての苦労話や、ご褒美がてらの海外視察旅行などなど、ご主人の話は尽きることを知りません
食後は間々田の「八幡宮
旧4号線にある一の鳥居
500mほど歩くと二の鳥居があり、境内に入ります
二の鳥居の額

当地のお祭り「じゃがまいた」は、国の重要無形民俗文化財に指定されており、見てみたいお祭りのひとつ
境内には八幡古墳群とよばれる大小様々な墳丘が点在しますが、今回は散策しませんでした
梅の花も咲き始めています
弁天池を渡り拝殿へ
祭神は、誉田別命、息長帯姫命
939年頃に起きた「平将門(下総国の豪族)の乱(近隣の常陸国、下野国の国府をおそい、領土を拡大しようと、都に反旗を翻した)」に際し、下野の豪族で武将の藤原秀郷が、当八幡宮ほか沿道の神社仏閣に戦勝を祈願し、猿島群北山での合戦で打ち破り、乱を平定したとの記録が残り、八幡宮の創建は奈良時代中期の天平年間と伝えられています
摂社の八龍神社は、厄除開運、農業・漁業守護の神様で、「じゃがまいた」の祭神
思川を挟み西側にある「網戸(あじと)神社
当初神社は今より南にあったが、大正3年(1914)渡良瀬川改修工事の一環として堤防拡幅がなされ、網戸城内の現在地に遷宮した
網戸城とは、鎌倉時代初期の結城氏の一族である網戸十郎朝村が築いた、思川と巴波川に囲まれた低地に築かれた平城
網戸十郎朝村の祖父は、小山政光(小山の祇園城城主)でその妻、寒河尼(さむかわのあま、源頼朝の乳母の一人で、八田知家の姉)との子である小山朝光は、結城氏の祖として結城朝光を名乗るようになったという、小山氏の直系の血を引き、小山家の定紋『左二ツ巴』を網戸神社の神紋としている
先の平将門を打ち破った藤原秀郷公は、当社にも戦勝祈願をしており、小山氏や結城氏網戸氏の祖先にあたる
その後代々、網戸氏の居城となっていたが、南北朝時代には、奥州に従軍していった網戸重村が奥州の地で討死したという
また室町時代の結城合戦では、網戸村重が討死し、その後の網戸氏は葦名氏(あしな)の家臣となって奥州に移っていき、城も廃城となったという
網戸神社の参道の手前に称念寺があり、寒河尼や網戸十郎朝村の墓所があるそうです
主郭は網戸神社の東側にあったというが、思川の堤防工事によって中央部を切断されてしまった

一方の網戸神社は、延喜式内という社格を持ち、朝廷からお祀りすべき重要な神社官社として認識されていた神社である
祭神は、宗像大社三人娘の長女、沖津宮が祀る田心姫命(たごりひめのみこと)、水運の神様で、式内・胸形(むなかた)神社の論社となっている
延喜式内・胸形(むなかた)神社の石碑
創建も古く、立派なご祭神を祀り、格式の高い神社のようです


境内社の稲荷神社
八坂神社
奥瀬神社、皇宮神社
浅間大神

右から、熊野神社、水神社、千形神社、三峯神社、天満宮、最左は読めず
現在では、かわいい御朱印を売りにしているようである

御朱印配布の社務所(?)には、番号を呼ばれるのを待つ人々
御朱印目的の人たちで、小さな駐車場はかなり混乱
参道入り口の称念寺(しょうねんじ)にあった五輪塔は、寒河尼や網戸氏らの墓だろうか
調べによると称念寺自体が小山市内の別の場所にあり、墓碑はそちらにあるという
小山市街城東へ戻り「愛宕塚古墳
この参道は「愛宕神社」への路
神社本殿は、愛宕塚古墳の上に鎮座します



境内社もありました



続いて田川沿いの「寺野東遺跡資料館」へ
寺野東(てらのひがし)遺跡とは、鬼怒川支流の田川右岸に南北にのびる宝木台地の東端、標高43m前後に位置し、南東には筑波山が美しい姿を広げ、遠く北西方向には白根山をはじめ日光連山や赤城山、北には高原山が展望できる場所で発掘された、縄文時代中期から晩期の集落跡、古墳時代前期の集落跡、同中期末から後期の群集墳、奈良・平安時代の集落跡などを指す
縄文時代の中期前半からは集落が営まれはじめ、遺跡の中央を北から南に流れる谷の下流を挟んで東西の台地上に、地床炉をもつ5mほどの隅丸方形や円形の竪穴住居跡の分布が推定される
小さなおもちゃのような土偶

直径約25mの円墳は「寺野東13号墳」
よく整備された広い遺跡
国指定の史跡です

長径22m短径17mの楕円形に石を敷き詰めた「石敷台状遺構」は、政を行う場所か?
古墳にも見える盛り土があるが、古墳の表記はない
周辺が盛り土された、お城の本丸のような場所で、4,300年~4,600年前の縄文人たちが、集団で居住していた場所
続いて小山市高椅(たかはし)の「高椅神社
創建は、景行天皇41年、西暦111年だが、本当か!?当然延喜式内社だ
「料理の祖神」として、岐阜県に4つの分社を持ち、日本調理師連合会が信仰している
宝暦4年(1754)より明和7年(1770)までの16年の歳月を要して完成したという楼門は、県指定有文で、結城城主水野氏の寄進だという
江戸中期の彫り物が色鮮やか



右大臣と左大臣の随身の名前はわからず




ここの狛犬は、阿吽共に子供を抱いている


景行天皇41年(西暦111年)、日本武尊が東征の際に当地で国常立尊・天鏡尊・天萬尊を勧請し、戦勝を祈願したのが起源とされる
天武天皇12年(684)、当地を支配した磐鹿六雁命の末裔高橋氏が高橋朝臣の姓を授けられ、その年、当社に祖神・磐鹿六雁命を合祀して高椅神社と称した
ということで祭神は、磐鹿六雁命、国常立尊、天鏡尊、天萬尊
むき出しの神殿は、装飾はほとんどなく、構造がよくわかる







長元2年(1029)、境内に井戸を掘ったところ大きな鯉が出たので、これを都に報告したところ、時の後一条天皇は誠に霊異なことであるとして「日本一社禁鯉宮」の勅額を授けた。以来、当社氏子は鯉を食べず、鯉の絵が描かれた器は使わず、5月にこいのぼりも立てない。このことから当社には鯉の明神の別名がある
この先に千年の池があり、鯉にかけた恋ロード
コロッケのころっ家」が、2022年11月「道の駅しもつけ」に登場




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