2/05/2023

2023/2月の散歩(下野国分寺)

2023/2/05
家から南の国分寺へ
川西薬師堂(洲崎の薬師堂)は、Google Mapにも、Net検索にも引っかからない
神亀3年(726)の創建と、かなりの古刹
一本のイチョウの木から落ちた銀杏の実が臭いこと



寛政4年(1792)奉納の手水鉢
天保3年(1832)奉納の鰐口
天平の丘公園に駐車し、国登録有形文化財の民俗資料館「夜明け前」でトイレを借用
天平の丘公園の梅の花
徒歩1分で下野国分寺跡
天平13年(741)、聖武天皇の詔によって全国60数か所に建てられた国立の寺院のひとつ


広大な跡地から日光3山を望む
EOS用に広角レンズが欲しくて、中古で手に入れましたが、広角側(17mm)は、太鼓型Distortionが強いレンズでした
22mm位に引けば、ほぼ正常画角です

伽藍(寺の建物)配置は、全国の総国分寺である奈良の東大寺と同じ形式(東大寺式)で、南北一直線上に南から、南大門、中門、金堂、講堂が並び、中門と金堂は回廊によってつながれています

跡地の南西角に古墳があります
甲塚古墳
下野市西部の姿川と思川に挟まれた台地上に築造された、古墳時代後期の6世紀後半頃と推定される帆立貝形古墳。出土品の埴輪群は当初の位置・向きまで良好に遺存する点、全国初の機織形埴輪の出土の点、一部の埴輪に彩色の残る点で注目され国の重要文化財


国分寺の最初の入り口は南門
南門の手前には、外堀がぐるりと彫られていました
東西413m、南北457mだそうです
その先に南大門
そして中門と続く
右手には多重塔跡
基壇の規模から七重塔であったと推定されるそう

金堂の北東に経蔵跡がある
こんな形だったそうです
その西には、このような鐘楼があったようです
経蔵と鐘楼にはさまれで、講堂跡

これが金堂跡
金堂の南東角に立つ天平婦人という樫の木?
実に婦人ぽい
金堂からぐるりと回廊が巡っていた
北の端に僧房

しもつけ風土記の丘資料館による、まとめ


復元するのも良いですが、せめてVRで現地で見てみたいものです
国分寺跡を後に、北へ向かう
古墳を回ります
まずは(国分寺)山王塚古墳
墳丘周囲には逆盾形の周溝が巡り、周溝を含めた古墳全体としては100ⅿ以上におよぶ前方後円墳でしたが、現在は畑に削られ、看板等もありません
畑の向こうには、丸塚古墳が見えます
丸塚古墳に来ました

直径約74m、高さ約7.2mの県内でも大規模な7世紀前半の円墳
入口は一枚石の中央をくり抜いて作る『くり抜き玄門』と呼ばれる技法を用いています
次に下野国分寺 薬師堂へ向かいます
鎌倉時代初期のものと言われ、関東地方の五輪塔としては最古の部類の下野国分寺五輪塔
中央が聖武天皇、左が光明皇后、右が行基供養塔だといいます
五輪塔は国分寺薬師堂脇にある
薬師堂の飾り屋根には、菊の紋
下部の礎石は、国分(僧)寺や国分尼寺の礎石を流用していると言われている
釈迦堂には、平安時代末期の定朝様式の影響を受けていると言われている木造釈迦如来坐像が収められているそう



薬師堂の隣、同じ敷地にある、瑠璃光山安養院国分寺
同名で混乱するが、下野国分寺(跡)は、11世紀-12世紀頃衰退したと見られている
あるいは、火災により国分寺および国分尼寺の僧たちが、北方に位置する当寺に逃げ延び、その法灯を伝承するとも伝わる
尼寺跡へ戻る道中の紅梅
あかねさす 紫野行き標野行き 野守は見ずや 君が袖振る 額田王
下野国分尼寺講堂跡
下野国分尼寺金堂跡
尼寺の造りは国分寺同様、回廊が取り囲んでいた
下野国分尼寺中門跡

この案内板が立つ道を、東に伸ばすと2kmほどで、東山道跡のある小金井の久保公園に続く
ここも東山道であったのであろう
しもつけ風土記の丘資料館へ立ち寄る






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