2/23/2023

2023/2月の散歩(真岡)

2023/2/23
前回行きそびれてしまった、芳賀町西高橋「行事神社
行事神社は、亀の子塚古墳頂上に鎮座する
神社の創建は大同2年(807)という
二の鳥居の場所が亀の子塚古墳の前方部が始まり、後円部がかなり高い本殿部となっている
古墳は,全長約56.3mの前方後方墳とされ、4C末~5C初頭のかなり古い部類だ
三の鳥居は朱に塗られている


祭神は、鹿島神宮から勧請した武甕槌命と、大己貴命

疱瘡太神



左が背の低い方形部で、木に囲まれ見にくいが高さ4.6mの後円部が、亀の子に見えるかな?

真岡市に入り京泉という田んぼの中にある「荒神塚古墳

南向きに開口する横穴式石室
2m以上の大きな石天井がむき出しになっている


同じく京泉の田んぼの中に「堂法田遺跡」は「塔法田堂跡」とも呼ばれる
38基の版築の基壇及び多数の礎石が確認され、古代芳賀郡の郡衙跡と認められるにいたった
田んぼの中を歩くしかない場所にあり、上の看板は望遠レンズで撮影した
鶏塚古墳」は、個人宅の敷地内にある


円墳なのがわかる

横穴式石室が墳丘の西南部に開口しているが、のちに生えたのであろう大木の根元が、石室への入り口となっている
このようなニワトリ型の形象埴輪が、完全な形で出土し、出土品は、国立博物館に保存されているという
石室は羽子板状の屋で、天井は自然石の大石6枚を並べ、それが完全に保存されている
お隣の庭にも円墳らしき丘だが、標識はない
真岡市街を抜け若旅の「星の宮神社古墳」は、畑に削り取られて原型を想像するのが困難だが、前方後円墳だという
横穴式石室の天井石を立ててご神体としてまつる、星の宮神社
真岡市寺内の「荘厳寺
山門手前の古木
天長9年(832)慈覚大師円仁によって創建された寺院
円仁さんといえば、豪族壬生氏の子として三毳山(みかもやま)東麓、現在の栃木市岩舟町下津原手洗窪(たらいくぼ)に生まれ、9歳まで高平寺で修行したという、あの人である
2022/11/27訪問


延命地蔵
六地蔵

大御堂(本堂)

鐘楼門は、康平5年(1062)源頼義の営造に係る古楼
寛文8年(1668)、明治30年(1897)、昭和27年(1952)と修復され、現在に至る

七福神
仁寿元年(851)創建とも、仁治元年(1240)創建とも伝わる「不動尊堂」

享保14年(1729)から4年をかけ、日光の宮大工による大改修を行う
居貫不動尊(不動明王立像)は、県指定の有文だが、秘仏のため33年に一度の御開帳だったが、現在は7年に一度御開帳するそうだ
像高98.3cmの木造で、平安時代の作とされる
よく見ると色が付いていないダミーのようだ

十九夜尊
寺の境内にある「山王神社」(真岡市有形文化財)は、慈覚大師草建にして、康平年間に再建し、寛永年間に現在の神社となる

本殿の屋根は、石瓦

4面とも木彫りの装飾画が見て取れる



少し北上すると、県の重文「中村城跡
東西414m、南北486mの四角いエリアを、幅9m、深さ6mの空堀がめぐっている
保元元年(1156)に中村常陸介藤原朝宗(ともむね)が築城し長い間中村氏の居城だったが、天文13年(1544)に下館城主水谷出羽守正村に攻められ落城
現在、中村城跡には「遍照寺」が建てられている
暦応年間(1338~1339)足利基氏と中興開基により、中村城茅堤に開山し、天文15~24年(1547~1555)頃、現在地付近に移転
しかし永禄元年(1558)に焼亡。2代将軍足利義詮の寄進の五重塔や大門、山門など7堂伽藍が焼失し、天正年間(1573~1592)に現在地に再建された
本尊は金剛界大日如来で、真言宗智山派、山号は如意山

樹齢約800年、樹高24m、根本周7m、胸高周6mのかやの木は県指定天然記念物
文治5年(1189)、奥州伊達家の祖・中村宗村が、源頼朝から奥州合戦の恩賞として与えられた伊達郡・信夫郡に赴く際に植樹したとする伝承がある


江戸時代創建の不動堂(市指定有文)には、木造不動明王立像(秘仏)を祀る





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